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きっかけは「両親の死」…40歳になった“元日本代表Bリーガー”が3部チームでの再挑戦を選んだワケ「最後に納得いく何かをつかみたいんです」
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph by(L)Nanae Suzuki、(R)香川ファイブアローズ公式Xより引用
posted2024/10/06 11:02
紆余曲折を経て今季、B3の香川ファイブアローズでプレーする岡田優介。決断のウラには複雑な感情もあった「両親の死」も影響したという
そして、今年の2月16日。今度は、母親を通してこの先の人生について考えさせられる出来事があった。母親が自宅で倒れていたという知らせが入ったのだ。連絡もないまま1週間近くパートを欠勤していると同僚から連絡があり、倒れているところを発見された。
「その話を聞いたときには正直、生きているとは思わなかったです。ただ、意識はあって……」
母親は昨年、肺がんを患っていることが発覚していた。ただ、すでに70代になっていたこともあり、進行はかなり遅いと言われていた。それでも、病魔は確実に体をむしばんでいたのだ。母親が何日ほど自宅で倒れていたのかさえわからなかったが、緊急入院することが決まった。その直後はまだ、言葉のキャッチボールは成り立っていた。ただ、岡田が「オレのことが誰だかわかる?」と聞くと、「わかるよ」と返してくるもの、名前は答えられないような状態だった。
そして、1週間ほどで母親の認知機能は一気に落ちていき、会話をまともにかわすこともできなくなった。
岡田の兄は仕事の関係で海外に住んでおり、妹は病気がち。そんな状況で母の入院に伴う作業からお見舞いまで、ほとんどを岡田が引き受けた。母親の家へ行き、必要なものを探しては持ってくる。郵便受けを開ければ手紙がたまっており、中には公共料金の督促状などもあった。一つひとつ開封し、処理していった。当時住んでいた千葉から新宿区にある病院まで、何度、お見舞いに行っただろうか。チームの練習が終わってから、急いで病院へ向かうこともあった。
ただ、入院から2カ月も経たない4月の上旬に転院が決まった。それ以上の回復は見込めないため、緩和病院へ移ることになったのだ。緩和病院とは、人が尊厳を保ちながら、なるべく苦しまずに最期を迎えるための施設である。緩和病院のスタッフからは遠回しに、こう言われた。
「次にお電話を差し上げるときは、“そういう時”かもしれません」
次の連絡があったのはそれから遠くない時期、4月14日の日曜日の朝だった。
「お母様の息が急に荒くなりました。来ていただいたほうがよいかもしれません」
選手としての在り方を考えさせられた「母の死」
越谷アルファーズとの2連戦の2試合目、レギュラーシーズンのホーム最終戦が控えていた日だった。この時期の岡田は試合に出場する時間がかなり減っていたものの、プロとしてやるべきことはやってきたつもりだ。あの試合のベンチ入りメンバーからも外れたのにはそういう事情があった。
ホーム最終戦でファンと顔を合わせられなかったことは悔しかったし、申し訳ない気持ちがあったが、病院へ急いだ。この日は、海外勤務の兄が母の見舞いのため、ちょうど日本へ帰国したタイミングだった。母はそれを待っていたのかもしれない。