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きっかけは「両親の死」…40歳になった“元日本代表Bリーガー”が3部チームでの再挑戦を選んだワケ「最後に納得いく何かをつかみたいんです」

posted2024/10/06 11:02

 
きっかけは「両親の死」…40歳になった“元日本代表Bリーガー”が3部チームでの再挑戦を選んだワケ「最後に納得いく何かをつかみたいんです」<Number Web> photograph by (L)Nanae Suzuki、(R)香川ファイブアローズ公式Xより引用

紆余曲折を経て今季、B3の香川ファイブアローズでプレーする岡田優介。決断のウラには複雑な感情もあった「両親の死」も影響したという

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ミムラユウスケ

ミムラユウスケYusuke Mimura

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(L)Nanae Suzuki、(R)香川ファイブアローズ公式Xより引用

 公認会計士の試験に合格しながらバスケットボールの日本代表としても活躍した岡田優介さん。40歳になった今季は、新天地となったB3香川で新たな一歩を踏み出した。そんな岡田さんだが、実は現在、自閉スペクトラム症と知的障害を持つ長男の子育て真っ最中でもある。アスリートとして、父として、異なる分野でともに先達のほとんどいない道を歩み続ける岡田さんだが、その背景にはどんな過去があったのだろうか。《全3回の3回目/最初から読む》

「中学卒業以降、親には金銭的な負担を一切かけていないんですよ。ただ、親孝行しようという『立派な人間』ではなく、親に面倒を見てもらうのが嫌だったからです。早く家を出たいという思いが強くて。親と頻繁に連絡を取って『今度の試合を見に来て』とか言うこともなかったですし」

 母親と仲違いをしているわけでも、兄妹との関係が悪かったわけでもない。ただ、誰の世話にもなりたくなかった。多感な時期の体験がそうさせた面もあるだろうし、バスケットボールや勉強などを通して、自身の手で何かを勝ち取ることにこだわってきた生き方でもある。

 青学大を卒業後は、当時のトヨタ自動車(現在のアルバルク東京)のバスケ部でプロになり、日本代表にも選ばれた。そこからは複数のチームを渡り歩き、“副業”として公認会計士の仕事や3人制バスケチームやスクールの運営、飲食店の経営などいくつもの事業を手がけてきた。

 ただ、今になって振り返ってみると、2016年にBリーグが誕生してから「家族とは何か、親とは何か。子どもとはどういう存在なのか」を考え、心を揺さぶられる機会が多かったかもしれないという。

 Bリーグ開幕初年度から2020年春までプレーしていた京都時代のこと。生みの父親の生活保護に関する手紙が届いた。

 日本では生活保護を受給しようとするとき、扶養してくれる人がいないかどうかを調査するという。戸籍をたどった担当者から、岡田たちに問い合わせがあった。ただ、父親の姓はすでに捨てている。何より、扶養の義務は一切ないということが手紙には明記されていた。

 扶養するという意思表示は、しなかった。それから数年もたたない2018年。今度は母親から連絡があった。

親子関係を考えるキッカケとなった「実父の死」

「あの人が亡くなったという連絡が来たよ。最後だけでも顔を合わせに行くかい?」

 岡田がそこに足を運ぶことはなかった。ただ、まだ長男の朔玖君が生まれる前の出来事だが、親子の関係について考えるキッカケにはなった。

「自分が父親になって、最期を迎えるとき、何を思うのか……。そもそも、親ってなんだろう?」

 その後、朔玖君と長女が生まれ、コロナ禍もあり所属チームも変わるなど、目まぐるしく時が過ぎていった。

【次ページ】 選手としての在り方を考えさせられた「母の死」

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