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「野茂は太りすぎや」「キミはエースじゃない」監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は近鉄と決裂した? 野茂が怒った“あるコーチの退団”
posted2024/03/03 17:04
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
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まだ日本からは遠すぎてリアリティのなかった大リーグを目指す、と堂々と口にする若者の出現。それは、奇しくも昭和プロ野球の象徴とも言える長嶋茂雄に対して、新時代の到来を予感させる言葉でもあった。
藤井寺球場のロッカーにはメジャーリーガーの野球カードを飾り、トレーニングの合間にロジャー・クレメンスらメジャー選手のダイジェストビデオを熱心に見る。ファッションも西心斎橋のアメ村で買ったMLBやマイケル・ジョーダンのTシャツを好んで着た。唯一大リーグのような対決ができる西武黄金期の四番・清原和博にはとことんストレート勝負にこだわり、その力と力の勝負は“平成の名勝負”と注目される。
当時、近鉄時代の野茂英雄の投球を捕手の真後ろから見ていた、元パ・リーグ審判員の山崎夏生は、「週刊ベースボールONLINE」で伝家の宝刀フォークボールの衝撃を回想している。
「18.44メートルの真ん中に来るまではストレートの軌道とまったく同じ。球速は130キロ台ながら、リリースしたときは直球のように伸びる感じが特徴的でしたね。そこからブレーキが効いたようにストンと落ちる。打者と同じように、真後ろでジャッジしているわれわれも直球とフォークの見分けがつかなかった」
毎年当たり前のように最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得する一方で、普段は朝まで飲むこともあったが、登板前になると激しいトレーニングで自分を追い込む背番号11。それを見た野手陣は、アイツが投げる明日は絶対負けられんと外出を控える。まさにエースだった。
「野茂は太りすぎや」決裂の予感
圧倒的な実績を残し続けるうちに、野茂にもトップ選手としての振る舞いを求められたが、プロ入り前から変わらず自分が納得のできないことは断固としてやらない頑固さを持っていた。