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「TBSにまで借金取りが…」「路上生活者になった」説も…数千万円“ギャンブルの借金”で行方不明になった伝説のプロレスラー、証言された「死の真相」
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byAFLO
posted2024/09/11 11:07
1961年、力道山(左)とタッグを組んでいた豊登(右)。力道山の死後、豊登は転落していく
かつての弟分で、東京プロレス倒産時には告訴合戦まで演じていたアントニオ猪木が、日本プロレスを除名され、新団体・新日本プロレスを立ち上げていた。メンバーは魁勝司(北沢幹之)、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰爾、ユセフ・トルコ(レフェリー)。戦力不足は明らかで、地方で隠棲していた豊登に、にわかに白羽の矢が立ったのである。
1972年3月6日、大田区体育館で行われた新日本プロレス旗揚げ戦に姿を見せた豊登は「一試合だけなら」と2年振りに試合に出場。山本小鉄とタッグを組み、ドランゴ兄弟と対戦すると、超満員の観客を大いに沸かせた。そのまま「旗揚げオープニングシリーズ」に参戦した豊登は、副将格として、黎明期の新日本プロレスを大いに支える。心底、ナンバー2が肌に合っていたとしか言いようがなく、当時の彼の置かれた状況を、スポーツ紙はこのように伝える。
《どんな社会でもその道ひと筋のベテランには年輪を積み重ねてきた独特の味がある。新日本プロレスのバッファローシリーズで活躍している豊登道春もその一人。緊迫ムードのスタンドに豊登が登場するとフッと安ど感が流れる。かつての世界一の豊登の実力とバリューに観客の誰もが信頼を寄せる。(中略)
豊富な話題の主、豊さん。彼の周辺にはいつも人の輪ができ、笑い声が起きる。(中略)チャンコ番の指揮に始まり、トレーニング方法、試合の展開と若いレスラーが豊登からアドバイスを受ける点は多い。若さと熱気をセールスポイントにする新日本プロレスという組織の中で“異端児”豊登が占めるウェートは予想以上に大きい》(1973年2月3日付/東京スポーツ)
ギャンブルが原因「再び追放」
これまで、日本プロレス、東京プロレス、国際プロレスと放逐されながら、弟分のアントニオ猪木の興した新日本プロレスが終の棲家になると、本人も周囲の関係者もそう信じていたかもしれない。
しかし、運命は非情だった。程なくNET(現・テレビ朝日)の仲介で、新日本プロレスと日本プロレスの合併話が持ち上がる。この話は、日本プロレスの主力選手である大木金太郎らの抵抗でご破算となり、坂口征二が5人の選手を引き連れ、新日本プロレスに合流することで話がつき、その際、NETが新たにテレビ中継を始めることも決まった。
しかし、NETは放送開始にあたって「豊登とユセフ・トルコ、営業社員の岩田浩の三者は会社から離れてもらうこと」を条件として突き付けた。力道山時代からの古参の選手だったユセフ・トルコは、この時期、レフェリーとして新日本プロレスになくてはならない存在にあったが、以前から「黒い交際」が頻繁で、テレビ局としては看過出来ず、日本プロレス時代からの営業社員である岩田浩も同様だった。
では、何故、豊登まで引導を渡されたのか。『ワールドプロレスリング』初代プロデューサーであり、NETの運動部長だった永里高平は生前、筆者にその理由を教えてくれた。