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「TBSにまで借金取りが…」「路上生活者になった」説も…数千万円“ギャンブルの借金”で行方不明になった伝説のプロレスラー、証言された「死の真相」
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byAFLO
posted2024/09/11 11:07
1961年、力道山(左)とタッグを組んでいた豊登(右)。力道山の死後、豊登は転落していく
「この頃、トヨさんは、地方の興行を買って、自分で興行を打つこともあった。それだけなら何の問題もない。ただ、あの人は博打の負けが込んで金が払えなくなると、賭場の胴元に、興行権を担保に差し出すようになっていた。小さい地方の興行だけなら目をつむることも出来たけど、大阪とか広島とか、大都市の興行もあった。ウチの親会社は朝日新聞で、各地の朝日新聞の営業所がチケットを取り扱うことになる以上、これからテレビ中継をするとなったときに、それは非常に都合が悪かったんだ」
証言「最後は“お寺の離れ”にいた」
結局、私生活の素行不良が原因で新日本プロレスからも契約を解除された豊登は、翌年、アントニオ猪木対大木金太郎の一戦でレフェリーをつとめたのを最後に、今度こそ完全に姿を消してしまう。その後の消息は不明で「浮浪者になった」「お寺に匿ってもらっている」「青果市場で働いている」等々の風説が飛んだ。そのいずれか、あるいは、そのいずれも正しかったのかもしれない。作家の色川武大はこう書いている。
《力士からプロレス転向組で、ひところかなりの人気があった怪力豊登。しばらく名前をきかないと思ったら、さるやくざの親分のところで、ていのいい用心棒をつとめていた由。ところが年齢に加うるに糖尿病で痩せ細り、かつての面影がない。親分が連れて歩いてもあまり信用されない》(『なつかしい芸人たち』/新潮文庫)
拙著『力道山未亡人』の主人公・田中敬子は赤坂のリキアパートを引き払って、代官山に引っ越した当初、豊登が訪ねてきたことを明かしている。おそらく、1981年頃だろうと思われる。
「このときの豊登さんは、随分と痩せていて、最初に『豊登です』って言われても『は?』ってすぐに気付かなかったくらい。往年の巨体も迫力もなかったし、言われないとわからなかったもの」(田中敬子)
消息を絶っていた豊登が、久しぶりにその姿を見せたのは、1989年2月22日、新日本プロレス両国国技館大会。ユセフ・トルコの引退セレモニーを行うとあって、同じタイミングで豊登も招かれ、一緒に記念品が贈呈されたのである。
それから9年後の1998年7月1日、豊登は67歳の生涯を閉じた。「最後は面倒を見てくれているお坊さんがいて、その人のお寺の離れの自宅にいた」と田中敬子は明かす。おそらく、事実だろう。
筆者は『力道山未亡人』で、夫の突然の死によって、翻弄される未亡人・田中敬子の数奇な生涯を描いた。しかし、時代に翻弄されたのは田中敬子だけではなかった。安定したナンバー2の地位から転落して、その後は追放と入団を繰り返し、不安定な立場に追いやられた豊登もその一人だったのかもしれない。彼の冥福を心から祈らずにはいられない。
<前編、中編から続く>