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「非合法ギャンブルで一晩2000万円を溶かし…」日本プロレスから追放された“伝説のレスラー”豊登とは何者か?「“親方と不仲説”…23歳で相撲界から消えた」 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph byNIKKAN SPORTS

posted2024/09/11 11:05

「非合法ギャンブルで一晩2000万円を溶かし…」日本プロレスから追放された“伝説のレスラー”豊登とは何者か?「“親方と不仲説”…23歳で相撲界から消えた」<Number Web> photograph by NIKKAN SPORTS

1954年10月、「親方との不仲」で力士廃業した豊登(当時23歳)。プロレス転向後の1枚(1955年2月撮影)

 また、1950年の春場所から、大相撲は隅田川沿いに建設中の「仮設国技館」で本場所を開催するようになる。というのも、両国の旧国技館が敗戦によって進駐軍に接収され、「メモリアルホ―ル」に様変わりしたことで、使用出来なくなっており、代用会場として本場所を行っていたのが、明治神宮外苑の相撲場だった。しかし、野外の悲しさで、開催が天候に左右される不便があり、そこで、二所ノ関部屋の後援者である新田新作の率いる新田建設によって急ピッチで建設が進められ、1950年に仮オープンを迎えたのが「仮設国技館」だった。それこそ、1984年秋場所まで本場所の開催会場となったばかりか、ボクシングの世界戦やプロレスのビッグマッチを度々開催し、キャンディーズのコンサートまで開催することになる蔵前国技館のことである。

 かくして、新関取となった豊登だが、西十両11枚目で迎えた秋場所で2勝13敗と大きく負け越し一場所で幕下に陥落。1年後の秋場所で再び十両に復帰するも、ここから四場所連続で負け越して再び幕下陥落と、関取生活は何とも不安定なものとなる。相撲記者の佐野康は「理由は立浪親方との感情的対立にある」と書く。事実、この時期に最初の廃業騒動も起こし、後援会の必死の慰留でどうにか角界に残留するが、のちのプロレス転向の端緒は、この頃、すでに芽生えていたと見ていい。

いきなり引退届「23歳で力士廃業」

 しかし、ここから怒涛の快進撃が始まる。東幕下2枚目で迎えた1953年初場所を10勝5敗で勝ち越し、十両再復帰を決めると、そこから9勝6敗、6勝3敗6休と連続して好成績を収め、東十両13枚目で迎えた秋場所では12勝3敗で晴れて十両優勝。続く1954年初場所で11勝4敗と大きく勝ち越し、遂に新入幕をはたすのである。

 晴れて幕内力士となった豊登を、当時のマスコミは次のように伝えている。

《豊登に「いちばん好きなものは?」ときいたら、かれは必ず「マキワリ」と答えるにきまっている。釣りもやる。映画もみる。そしてだれもいないときなど、ひとりぼっちでラジオの音楽に耳をかたむけてたのしんでいることもあるが、やっぱり豊登のもっとも好ましい道楽はマキワリである。「戦争中から戦後もしばらくはたのしかったね。ところが、いまはガスがあるからダメだ」変わった趣味である。マキワリがいちばん好きだという男はまず豊登をおいてほかにいないだろう。(中略)マキをわるときのように“無心”で土俵に生きぬけば、三役はまずまちがいない。酒は少量、タバコはやらない。無口なので社交性はないほうだが、ハラをわってつきあえば「話せる男」である》(『相撲』1954年11月号)

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