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22年前の「もうひとつの大社旋風」…なぜ“島根の県立高”陸上部が「インターハイで総合優勝」できた? 原動力だった“伝説のエース”の正体
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byGetsuriku
posted2024/09/08 11:02
22年前、陸上インターハイで総合優勝を果たした島根・大社のエーススプリンターだった野田浩之。全国大会では4種目で入賞を果たした
岡先が早大在学中には、2007年に開催を控えた大阪世界陸上や2008年の北京五輪を睨んだ試合も多かった。
結果的に、その世界の大舞台では高校時代に見知った選手も出場したという。それでも岡先は「身近な大会には感じましたけど、そこに自分が立つイメージは持てなかった」と振り返る。
大社のメンバーの中で「野田だけは違った」
その一方で、当時の大社メンバーの中でも「野田君だけは違ったかもしれない」と言う。
「大阪世陸でもインターハイで一緒に走った塚原選手や高平選手がリレーメンバーとして出場して5位に入賞していた。当然、僕よりもよりリアルに“先の世界”をイメージしていたとは思うんです」
ただ、当時はまだ東京五輪の開催も決定する前である。
スポンサーのスタンス的にも、駅伝以外の種目では実業団で競技継続できるハードルは決して低くなかった。野田もインカレでは活躍していたものの、なかなか代表レベルまではとどいていなかった。
結果的に岡先は大学卒業後、トレーニング科学やバイオメカニクスなどのスポーツ科学を学ぶために大学院へと進んだ。投擲競技は続けてはいたものの、研究の一環としての要素も強く、一線からは離れる格好になった。
そして“大社の大エース”だった野田も、早大卒業後は地元・島根に戻って公務員になる道を選んだ。ただ、野田はそれでもちょこちょこと地元を中心に大会などにも出場し、トレーニングを続けていたという。
岡先や神田などの同級生は、その結果を見るのを楽しみにしていた。
昨今、環境が変わることで飛躍的に記録を向上させる選手が多いことは周知の事実だ。それを鑑みれば、地元・島根の地に戻ることで、かえって野田が力を伸ばす可能性も十分にあるようにも見えたからだ。屈強な体躯で駆ける力強いスプリントに秘められた、規格外の才能を知る者であればあるほど、そんな想いも大きかったのだろう。
だが、そんな夢想は叶わず終わってしまう。
2011年、大学を卒業して4年が経った年明け。元チームメイトのもとに、突然野田の訃報が届いたからだ。
<次回へつづく>