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「自分はずっと補助席で」“ヤンキースで叩かれた左腕”井川慶が味わった過酷マイナーとメジャー格差「ホテルでの名前はスタンハンセン、と」 

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酒井俊作

酒井俊作Shunsaku Sakai

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photograph byNick Laham/Getty Images

posted2024/09/16 12:05

「自分はずっと補助席で」“ヤンキースで叩かれた左腕”井川慶が味わった過酷マイナーとメジャー格差「ホテルでの名前はスタンハンセン、と」<Number Web> photograph by Nick Laham/Getty Images

ヤンキース時代の井川慶。マイナー時代に経験した驚きのエピソードとは

「野球が楽しくなりましたし、アメリカに行ったことで、いろんな視点で見られるようになりました。日本の経験だけだと、固定観念っていうか、考えが固くなってしまうことがあるんです。野球ってこういうモノなんだという思いこみがあったのかもしれませんが、アメリカは自由というか、奥深いというか、本当に面白かったですね」

 カルチャーショックは人を変える。

 井川が最初に戸惑ったのは渡米当初の07年2月である。

 フロリダ州タンパで迎えた初めてのスプリングトレーニング。先発投手としてブルペンで投げるわけだが、投げる時間が指示されたという。短い時はわずか5分間。30球も投げられない。阪神での井川はキャンプ中、1日100球をメドに毎日のように投げ込んで体をつくっていくタイプだった。だから、気にせずにブルペンで投げているとスタッフに注意された。

「契約しているのはウチなんだ。ウチの言うことを聞いてくれ」

 アメリカのベースボールには、日本よりも融通が利くイメージを抱いていたから驚いた。これではむしろ、日本の野球の方が自由に調整できるではないか。消耗品である肩やひじを守るために球数を管理するのはわかるが、頑なだった。契約社会であるアメリカのシビアな現実を思い知らされた。

白人とラテン系の乗るバスそれぞれに乗ってみると…

 特にマイナーリーグでは、日本にはない過酷さを味わった。遠征になるとバスで移動する。井川がプレーしたヤンキース傘下の3Aチームはインターナショナルリーグに所属し、ペンシルベニア州スクラントンを拠点にアメリカ東部を転戦するから、近場が多いが、それでも10時間の長旅もあった。

 3Aでは2台、マイクロバスが用意され、白人とラテン系に分かれていた。

 井川はその両方に乗った。

 最初は白人が乗るバスへ。目の前のモニターでは映画を流していた。英語を聞き取れないから時間つぶしにもならなかった。さらに人が多いため、肩をすぼめながら座った。

 今度はラテン系の選手が多いバスに乗ってみた。陽気なおしゃべりが多く、酒を飲んで騒がしい。だが、1時間後、急に静かになった。全員が眠りに落ちた。人数も少なく、広いスペースを確保できたため、最終的にはラテンバスで移動していた。

「自分はもう、ずっと補助席でした」

 難儀したのは2Aでプレーした時である。

【次ページ】 井川が「スタンハンセン」と名乗った日

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