「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
ヤクルト監督・広岡達朗はなぜエースを“干した”のか? 謎に包まれた「松岡弘、空白の26日間」の真相…「私はいい選手に恵まれた」92歳の告白
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/08/30 11:36
ヤクルトスワローズ監督時代の広岡達朗と、エースとしてチームを支えた松岡弘。松岡をマウンドから遠ざけた「空白の26日間」の真相を、広岡が明かした
当時の映像を繰り返し見ても、マウンド上の松岡の「異変」を理解することはできなかった。それは当然のことだろう。当の松岡自身が「一体、何が悪いのだろう?」と感じていたのだから。いくら鏡の前でチェックしてみても、広岡の指摘する意味がわからない。試行錯誤したまま、ただいたずらに時間だけが過ぎていった。しかし、今なら理解できる。何がいけなかったのかを。松岡は言う。
「要するに軸ですよ。広岡さんの考えでは、ピッチングフォームも、バッティングフォームも、あるいは守備のときにも全部軸があるんです。その際にどこに重心を置くか、どこに力を入れて、どこの力を抜くか。きちんと軸が定まれば、何事も無駄のないきれいなフォームになる。広岡さんは、いつもそれを口にしていました」
言葉では伝わらない「氣を鎮めるコツ」
この頃、松岡の女房役を務めていた大矢明彦は本連載においてこんな発言を残している。
「……あのときは、バランスだったんです。軸足で立って体重が乗ったときにバランスよく投げることができるかどうか。それでボールの勢いだとか、コントロールが決まってくるんです。あのときの松岡は指先にかかったボールが少なかった。ボールにバラつきがありました。だから、監督としても試合で使えなかったんじゃないですかね」
軸足で立ったときのバランスが乱れている――。広岡は、松岡の「異変」をベンチから見抜いていた。だからこそ、何度も何度も、片足で立つ練習を命じた。シーズン中の遠征先では自室に招いて、あるいは共用スペースに呼び出して、松岡とマンツーマンで濃密な時間を過ごした。前回の冒頭で紹介したように、「78年の松岡」について尋ねたとき、広岡が何度も「お互いに研究して苦労した仲だ」と口にしたのは、このことを指していたのである。92歳になった広岡が、往時を振り返る。
「臍下の一点に氣を鎮める。言葉で言うのは簡単だけど、誰でもすぐにできるものじゃない。何度も何度も挑戦して、ようやくコツのようなものをつかむことができる。下腹は力を入れる場所ではなく、心を鎮める場所。それを理解することに何年もかかりました。あのときの松岡に、そんな説明をしても理解できなかったかもしれない。けれども、言葉ではなくて実際に何度もやっていくうちに、彼もようやくコツをつかむことができたんです」