Number ExBACK NUMBER
「僕にとって体操というより、人生の挫折でした」内村航平がいま明かす“東京五輪、まさかの落下” じつはリオ五輪後に語っていた“地獄の始まり”
posted2024/08/17 11:01
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph by
Yuki Suenaga
【初出:発売中のNumber臨時増刊号[挫折地点を語る]内村航平「東京五輪、落下からの3日間」】
「キング」内村航平が明かす3度の“挫折ポイント”
手に入れた五輪のメダルは金3個、銀4個。世界選手権では前人未到の個人総合6連覇。「キング」の名をほしいままにした内村航平だが、やはり挫折はある。
「1度目は上京してすぐの高校時代。2度目は17年の世界選手権で、試合中にケガをして途中棄権した時。あとは東京五輪の予選落ち。この3つかな。精神的に一番きたのは、東京ですね。世界選手権の途中棄権は、ケガならこれまでに何度もしてきたし、ちゃんとやっていけば乗り越えられるだろうなと思いましたから」
苦しかった3度の“挫折ポイント”を挙げながらひょうひょうと語っていく内村が、「実はかなりきつかった」と言うのは高校時代だ。長崎の親元を離れ、東京で下宿生活をしながら練習に打ち込む毎日。「強くなるために集まった選手たちと、強くしてくれるコーチたちがいる環境でした。だから、難しい技をもっと楽しく覚えられるのかなと思っていたのですが、まったく違いました」
練習メニューはゆかの前転や側転など、基本的なことばかり。正しく出来ているとコーチに認められるまで先に進めない。
「小学生の頃にやっていたようなことの繰り返しで、これじゃ赤ちゃんと同じことをやってください、と言われているのと一緒だと思っていました。難しい技は全然やらせてもらえず、何のためにここに来たんだろうって思っていました」
ケガも多かった。高1の1年間で腰椎分離症になり、左腕を骨折し、脚も骨折した。
「初めての東京暮らしというのもきつかったですね。長崎と東京では言葉も違うので。ただ、基礎練習の必要性は高校生のうちに理解しました。それまで出来なかった技が楽に出来るようになったからです」
内村が「1度目」として挙げた高校時代の苦しみは、いわば青春の蹉跌だったのだろう。
地獄の始まり
「2度目」として挙げたのはリオデジャネイロ五輪で男子個人総合の2連覇を達成し、海外メディアから「史上最高のジムナスト(体操選手)」と評されるようになっていた2017年10月に訪れた。モントリオールでの世界選手権。予選の競技中に跳馬の着地で左足首を負傷。体操人生で初めて途中棄権することになった時だ。
ただ、この負傷の際は、「もっと強くなって帰ってくる」とコメントしていたように、「しっかり練習すれば戻ってこられるだろう」という自分自身の見立てはあった。しかし、冷静に振り返ると「リオ五輪が終わった不調がたくさん出てきていた」という。
「リオ五輪では最後の鉄棒で腰を痛め、ブラジルから帰国した後に足首も痛くなって走れなくなりました。 17年4月の全日本個人総合選手権には間に合って10連覇を達成したのですが、体はきついのに勝っちゃって……。その時に言ったのが『地獄の始まり』ということです」