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「僕にとって体操というより、人生の挫折でした」内村航平がいま明かす“東京五輪、まさかの落下” じつはリオ五輪後に語っていた“地獄の始まり” 

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矢内由美子

矢内由美子Yumiko Yanai

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photograph byYuki Suenaga

posted2024/08/17 11:01

「僕にとって体操というより、人生の挫折でした」内村航平がいま明かす“東京五輪、まさかの落下” じつはリオ五輪後に語っていた“地獄の始まり”<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

4度の五輪出場で金メダル3個、銀メダル4個を獲得した内村航平だが、3度の“挫折ポイント”があったという

 その後は自らの“予言”通り、18年にはドーハ世界選手権の現地練習で右足首を負傷し、個人総合の出場を回避。19年は全日本個人総合選手権予選の平行棒で演技中に左肩を痛めて演技を中断し、08年に北京五輪に出場してから初めて世界大会の代表入りを逃した。

 肩の痛みはやっかいだった。名医と出会ったことでブロック注射を打って痛みを和らげる術を手に入れることは出来たが、3週間に1回のペースで注射を打ちに行く生活は22年3月の引退まで続いた。

東京五輪、まさかの落下

 そういった生活を続ける中で1年間悩み続けながら決断していったのが、鉄棒一本に絞って東京五輪を目指すことだった。内村にとって鉄棒は計8度出場した世界選手権で金メダルを含む通算5つのメダルを獲得している得意種目。そして、何より重要だったのが、鉄棒なら肩の痛みと無関係に演技をできることだった。

「19年4月の全日本選手権で予選落ちしてから、決断したのは約1年後の20年3月でした」と述懐するように、悩み抜いての決断だったが、やると決めたからには人とは違う次元を目指すのが“キング”だ。取り組んだのは世界でも数えるほどしか成功した人がいないH難度の超大技「ブレットシュナイダー」。結果として内村はこの超高難度技を完璧に仕上げ、最大の武器としてひっさげて21年東京五輪に挑んだ。

 ところがここで悲劇が起きた。厳しい代表選考会を乗り切った後、大会本番まで絶好調を維持して臨んだ予選の演技。内村は冒頭の「ブレットシュナイダー」を成功させたが、その後のひねり系の技でまさかの落下。予選落ちとなり、内村の東京五輪は幕を閉じることになった。

 内村は今、この時の経験を「僕にとって体操の挫折というより、人生の挫折でした」という。「予選が終わってから本当に落ち込みました。鉄棒に絞って東京五輪に行けたのに、何してんだよ、って」

落ち込むのは「3日で飽きた」

 東京五輪では、自身の試合が終わった後も所定の期間はナショナルトレーニングセンターで過ごすことになっていた。朝起きて食堂に行けば、他競技の選手たちから「見てはいけない」という感じで視線をそらされるのが辛かった。

 しかし、3日で気持ちを立て直した。「落ち込んでいるのは3日で飽きた」。この切り替えも内村ならではだ。

 今、内村は「東京五輪でああいう挫折を経験して、人間として必要な感情を得られたなと思っているんです」と語る。失敗した時の感情を知っているからこそ引退後の人生に感情の奥行きができている。そして、ますます体操を好きになっている――。

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