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急逝から19年…“破壊王”橋本真也はどんな父親だった? 火葬場で泣き崩れた長男・橋本大地はプロレスラーに「使命感みたいなものがあった」 

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橋本宗洋

橋本宗洋Norihiro Hashimoto

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posted2024/07/19 11:00

急逝から19年…“破壊王”橋本真也はどんな父親だった? 火葬場で泣き崩れた長男・橋本大地はプロレスラーに「使命感みたいなものがあった」<Number Web> photograph by 本人提供

“破壊王”橋本真也は子供たちに対し、時に厳しく指導し、遊ぶときは全力で向き合った

「メシは家族全員で、テレビはつけない」父の教え

 大事なおもちゃは、棚の高い場所に飾ってあった。大地の手が届かないように、だ。家の小窓からエアガンでカラスを狙い撃ちしていたことも覚えている。そういう父が、大地にとっては「普通」だった。

「他の家のお父さんがどんな感じか分からないですからね。僕にとっての“親の仕事”ってリングで闘うことで。失礼な話かもしれないけど、会社に行ってパソコンに向かってる他のお父さんって、いったい何をしてるんだろうって思ってました」

 家にいる時は“自分がルール”の父でもあった。

「たとえばメシは絶対に家族全員で食べるとか。食べてる時はテレビはつけない。そういうところは普通というか、ちゃんとしてました。呼ばれたらすぐに父のところに行く、寝ろって言われたらすぐ寝る。とにかく言うことは聞かなきゃいけない。他にもルールがあって、僕はよく覚えていないんですけど“水戸黄門で印籠が出たら拍手する”とか(笑)」

「破壊王の息子」と見られ…否定する余裕もなかった

 自分が反抗期を迎える前に、父は世を去った。プロレスラーとして指導を受けたこともない。だがプロレス界ではどうしても“橋本真也の息子”として見られる。プレッシャーも偏見もあるだろう。本人はそれすら意識できなかったのだが。

 デビューは2011年の3月。父が設立したZERO-ONEの10周年記念大会(両国国技館)だった。対戦相手は父と武藤敬司との3人で“闘魂三銃士”と呼ばれた蝶野正洋である。

「大きい大会があるからそこでデビューでどうかと会社から聞かれて。これを逃したらけっこう(デビューが)先になりそうだったので受けました。普通の練習生は十分な実力がついたところでデビューが決まる。僕の場合はデビュー日が決まってる状態で、そこに実力を合わせなきゃいけなかった。(ドラゴンボールの)精神と時の部屋みたいでしたね、デビューまでは」

 つまり外の世界と隔絶され、練習しかすることがない環境。実力をつけること以外は考えられなかった。蝶野との対戦の後は全日本プロレスで武藤とシングルマッチ。その頃から蝶野の得意技STF、武藤の必殺技シャイニング・ウィザードを使っている。とはいえただただ無我夢中で「期待に応えなければ」という気持ちすら持つことができなかった。

 当時、スポーツ紙の記者たちは大地のキャッチフレーズについて相談していた。“破壊王子”という案が出たが、新人だからまだ何も破壊していない。やはりストレートに“破壊王2世”か、と。

「それを会社から聞かれて、僕は“破壊王子”にしてくださいと。その年にハンカチ王子(斎藤佑樹)がプロ入りしたんですよ。その話題に乗っかろうと思って」

 破壊王と呼ばれた橋本真也の息子であることを、ことさらに否定しようとは思わなかった。そんな余裕もないし、慣れっこでもあった。

「仕方ないでもないしありがたいでもない。何も考えてなかったですね。考えだすと“これでいいのか”ってなるんだけど、考えるのを諦めてたのかな(笑)」

【次ページ】 なぜ父の団体ZERO-ONEを去ったのか?

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