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甲子園の風BACK NUMBER
大谷翔平は「書かずに勉強していた」花巻東の同級生・山根大幸が振り返る高校生活、その後の野球人生「引退を報告すると翔平からは…」
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph bySankei Shimbun
posted2024/06/10 11:02
プロ志望届を記入する大谷翔平。その高校生活と「その後」を、高校卒業も野球を続けた花巻東のチームメイト・山根大幸さんが明かす
チェンジアップを1、2球投げて習得
要領の良さや器用さは、野球にも当然生きる。山根さんは、大谷からチェンジアップの投げ方を聞かれたことがある。
「僕が投手コーチの方に教えてもらったチェンジアップが結構良くて『それ、どうやって投げているの?』と聞かれたので、説明したら1、2球で習得されてしまいました(笑)」
打者だけではなく、投手としての才覚も抜群に優れていた。ただ、2年夏に左足股関節を故障した影響で、技術練習を積む時間は限りなく制限された。「4番投手」で出場した3年センバツの大阪桐蔭戦では、5回まで2安打に抑える好投も、残りの4イニングで9失点。
的中した不安材料
山根さんは「翔平は大会に入るまで9回を投げる練習はしていませんでした」と明かす。
「それまで、5回ぐらいまでしか投げていなかったので、大丈夫かなと思っていたら、やはり後半にやられました。真っ直ぐもそんなに走っていなかったし、シュート回転もしていて、ボールが指にかかっていませんでしたね」
センバツが終わり、3年計画の集大成となる最上級生となった。夏へと向かう、高校球児にとって最も大切な時期と言っても過言ではない。
「あまり記憶にないんですよね。追い込み期間もあって、朝4時半から7時までバッティングして、学校が終わって23時まで練習していました。あっという間に夏が来た感じです」
ケガが癒えた大谷も例外なく、朝から晩まで野球に打ち込んだ。センバツで負けた悔しさが、より一層、追い込みに拍車をかける。もしこの時期を乗り越えていなかったら、「あの1球」は生まれていなかったかもしれない。