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バレーボールPRESSBACK NUMBER
「お前、何笑っとんねん」高橋藍を激怒させた相棒セッター…高校時代の高橋藍はとんでもなく“負けず嫌い”だった「目標は常に高いところに」
posted2024/06/07 11:05
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph by
Volleyball World
卒業文集に書いた目標「オリンピックに出る」
バレーボールは2歳上の兄・塁の影響で始めた。「野球とサッカーのほうが好きだった」と当時を回想するが、とにかくバレーボールが大好きだった兄は練習相手にいつも弟を指名した。小学2年で兄と同じクラブに入った高橋は、6年生になった時のある出来事からバレーボールに一気にのめり込んでいく。
2013年9月、7年後の東京で五輪開催が決まったことだ。
「卒業文集に『バレーボール選手になってオリンピックに出る』と書いたんです。正直、最初は自分からやりたくて始めたわけじゃなかったですけど、バレーボールをやる以上、トップのゴールは『オリンピックでメダルを獲ることだよ』と、言われて。 昔から目標は常に一番高いところに置いておきたかった。年齢を考えたら、東京オリンピックの年はまだ18歳、19歳だったんですけど、目標にするならこれだと迷わず思ったことはよく覚えています」
小学生の頃はまだ身長も低く、中学入学時で155センチぐらい。最初はセッターを務めていたが、すぐリベロに転向した。
「中学生になるとボールの重さが変わるので、(セッターをやっていると)腕がパンパンになるから嫌だったんですよ(笑)。それにチームのエースが塁だったので、『もっとこういうトスを上げろ』とか、塁も僕がセッターだと言いづらそうだった。それな らリベロかな、と。僕が拾って、塁が打つ。リベロは居心地がよかったです」
現在の姿を知った上で昔話を聞けば、リベロとして培ったレシーブ技術が大きな武器になったことがわかる。だが、身長が伸びない現実に焦っていた当時の藍少年は、そんな未来を描くことすらできなかった。中学3年になって10センチ以上伸びた時は 心底ホッとし、バレーボールをようやく楽しめるようになった。
卒業後は兄と同じ道を歩み、東山高へ。そこでもひたすら、レシーブ力を磨いた。
「練習はめちゃくちゃ地味。一つひとつのパスが細かくて、二人組での対人レシーブ も10分×10セットが当たり前だったので、練習時間も長い。毎日クタクタでした」
全国を勝つよりも、京都を勝つほうが難しい。現在も続く図式は当時から変わらず、 日本一を目指す最大のライバルは同じ京都の洛南高だった。1学年上には、後に日本代表で共にプレーする大塚達宣がいた。
高橋藍が東山高を選択した理由「中島が入学するらしい…」
昔から負けず嫌いだった高橋は燃えた。強い相手と戦える、それを倒すのが最高に面白い。まるで主人公のように欲望を隠すことなく燃える高橋に、兄に代わる新しい“相棒”ができた。東山高の同級生で、セッターの中島健斗だ。