「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「人に迷惑かけてへんやないか。汚い真似をするな」広岡達朗の参謀に激怒…伊勢孝夫が明かす“優勝翌年、ヤクルト崩壊”のウラ側「やり方が陰湿すぎた」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/06/07 11:03
1978年10月、ヤクルトを初優勝に導き、喜びにひたる広岡達朗と“参謀”の森昌彦(現・祇晶)。しかしこの翌年、チームは内側から瓦解してしまう
「退任が決まった日、ワシは神宮の室内練習場で練習をしてから、後楽園球場に向かうつもりでした。練習を終えてクラブハウスに向かうと、そこに広岡さんの車が止まっていました。“あれ、監督、何しにきてるんやろ?”って思っていたら、たまたま広岡さんに呼び止められました……」
このとき広岡は、「オレは今日で辞めるけど、伊勢、頑張れよ」と声をかけたという。「何で辞めるんですか?」という問いに対しては、何も答えなかった。このとき伊勢は広岡に尋ねている。
「広岡さんに直接、“森さんはいつもミーティングで、監督の名前を出してますけど、それは本当なんですか?”と尋ねると、広岡さんは、“そんなことはひと言も言っていない。選手を批判するときには自分で言う”と話していました。やっぱり、森さんが勝手に監督の名前を出していたんでしょう」
広岡達朗は参謀を擁護「森は憎まれ役の名人」
後に広岡自身も「私はそんなことは頼んでいないけれど、それだけ熱心に選手たちのことを考えていたのだろう」と、森のことを擁護している。それは、「言った」「言わない」の水掛け論であり、真相は藪の中ではあるが、それでも伊勢は「広岡さんの指示ではない」と、今でも信じている。ちなみに、広岡の自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)には、森についてこんな記述がある。
《しばらくは味方の選手に憎まれ、そしてつぎは巨人の選手に憎まれながら、彼はチームから巨人コンプレックスを一掃する上に大きな役割を果たした。私はかつて、森のような“憎まれ役の名人”を見たことがない。》
伊勢の話はさらに続く。福岡から長崎に移動した、その翌日のことだ。
「長崎では、グラバー邸を下りたところにあるホテルに泊まりました。部屋に着いたら冷蔵庫にビールがある。練習が終わって、“部屋でビールでも呑もうか?”となって、若松の部屋を訪れた。若松に、“ちょっとシャワーを浴びるんで、先に呑んでてください”と言われて、冷蔵庫を開けたら、中は空でした。そこで調べてみると、森さんの指示で全員の部屋の冷蔵庫が空になっていました」