「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「人に迷惑かけてへんやないか。汚い真似をするな」広岡達朗の参謀に激怒…伊勢孝夫が明かす“優勝翌年、ヤクルト崩壊”のウラ側「やり方が陰湿すぎた」
posted2024/06/07 11:03
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
広岡達朗による改革が実を結び、1978年に球団初の日本一に輝いたヤクルトスワローズ。だが翌79年、チームは最下位に転落し、広岡も監督の座を退くことになる。黄金時代の到来を夢見ていたチームは、なぜあっけなく崩壊したのか。「よかれと思っての行動だとはわかっています。でも、あまりにもやり方が陰湿過ぎた」――ベテランとしてチームを俯瞰していた伊勢孝夫が、独自の見解を述べた。(連載第31回・伊勢孝夫編の#3/#1、#2、#4へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時
初の日本一の翌年、なぜスワローズは瓦解したのか?
左右の両エース・松岡弘、安田猛と、それを支える女房役の大矢明彦。さらに強力打線の中軸を担った若松勉、大杉勝男、チャーリー・マニエルらの活躍により、広岡達朗率いるヤクルトスワローズは創設29年目で悲願の日本一に輝いた。プロ16年目を迎えていた伊勢孝夫も、貴重な代打の切り札として「伊勢大明神」の二つ名に恥ずかしくない活躍を見せた。しかしその翌年、チームはあっさりと瓦解する。
「せっかく優勝したのに、翌年はチームがガタガタになってしまったでしょ」
伊勢の言葉にあるように、連覇を目指して臨んだ1979年シーズンは、開幕8連敗から始まり、チームはまったく浮上の気配を見せぬまま最下位に沈んだ。前年、正力松太郎賞を獲得し、「名将」の名をほしいままにした広岡も、シーズン途中でチームを去ることとなった。一体、この年、スワローズに何が起きていたのか?
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「やっぱり、森さんが原因だと思いますよ……」
伊勢が切り出した。彼が口にした「森さん」とはもちろん、広岡に請われて78年からスワローズ入りしていた森昌彦(現・祇晶)バッテリー・作戦コーチである。
「……チームがうまくいっているときはいいけど、それがうまく回らんようになって負けが込んできたら、選手というものはどうしても誰かに矛先を向けるものですよ。その矛先が森さんに向かったんです」