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ボクシングPRESSBACK NUMBER
「その才能を活かしきれていたか?」天才ボクサーと歩むトレーナーの自問自答…内藤律樹32歳はなぜオーストラリアから再び“世界”を目指すのか
text by
関根虎洸Kokou Sekine
photograph byKokou Sekine
posted2024/05/14 11:11
2024年3月15日、オーストラリアでの第2戦をKO勝利で飾った内藤律樹。試合終了直後のリング、わずかに切れた目尻から血が滲んでいた
横浜の湾港の会社で働き、渡豪を繰り返した
リッキーのオーストラリア第1戦が行われたのは2023年12月。つまり現地へ渡ってから1年近く試合のチャンスがなかったことになる。その間に2度試合が決まったが、2試合とも相手選手の都合でキャンセルになった。また、当初考えていたよりも労働ビザの取得はハードルが高く、観光ビザでオーストラリアへ入国し、3カ月の期限が来ると日本へ帰国する必要があった。
横浜へ戻ると10代の頃から世話になっている港湾の会社で働き、また渡豪するという生活が続いた。試合が決まらないもどかしさもあったはずだが、徐々に英語が話せるようになったことや、ブレンドンという信頼のおけるマネージャーとの出会いも前向きに試合を待ち続けられた一因だろう。
「あなたの選んだ相手なら誰でも試合をします」
リッキーはマネージメントを依頼するブレンドンにそう伝えていた。だが、クイーンズランド州トゥーンバでTWG & Smithy’s Gymを運営しながら興行も手掛けるブレンドンも頭を悩ませていた。
ジムに住み込みで練習しながら、試合の決まった選手たちのスパーリングパートナーを務め続けているリッキーにチャンスを与えたい。元日本、東洋太平洋チャンピオンのリッキーの対戦相手として、それ相応の選手にオファーしたが、国内王者クラスの選手とは条件やタイミングが合わず、無敗のホープと決まった試合も2度にわたってキャンセルされてしまった。
ブレンドンは方向転換して、自身が地元で開催する小さな興行にリッキーを出場させることに決めた。
自分はリッキーの才能を生かしきれていたのか
リッキーとはLINEで週に一度、連絡を取っていた。私からはカシアスジムの選手に関する報告をしたり、気になったボクシングの記事や動画を送ったりしていた。リッキーからはコンディションや練習内容などのメッセージを受けることが多かった。なにか大事な報告があるときはメールではなく、必ず電話がかかってくる。