近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄の会見直前、近鉄は球団旗を外した…「メジャー挑戦」電撃発表の舞台裏 記者が明かす「野茂と近鉄の視点は、完全に違っていた」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byJIJI PRESS
posted2024/05/02 11:05
1995年1月9日、メジャー挑戦表明の会見を行った野茂英雄。その直前まで続けていた近鉄との交渉を当時の番記者が振り返る
契約更改交渉の席上、複数年契約を要求した野茂と単年契約を提示した球団側は決裂。その時、野茂は球団側から差し出された「任意引退同意書」にサインしたという。
何とも聞き慣れない書類の名前に、その真偽が取り沙汰されたのも事実だ。
「任意引退」をした先輩の近鉄選手がいた
ところがこれは当時、若手選手が米球界へ留学の形で派遣されるときなど、いったんこの同意書にサインするケースがあったという。
「俺もなあ、書いたことあると思うで」
そう教えてくれたのは、94年に12勝を挙げた右腕・山崎慎太郎だった。
山崎は、プロ2年目の1986年、米ルーキーリーグへの野球留学を経験している。アメリカでプレーするために、近鉄からいったん“リリース”された状態にする必要があり、その手続きとして「任意引退同意書」にサインしたのだという。
だから、この同意書の効力を知る球団と野茂とのやりとりは、こう読み取れるのだ。
球団側からすれば、契約交渉に際しての一貫した姿勢を見せ、強硬な野茂側へのいわば“ブラフ”のつもりで「任意引退」を突きつけた、と。
こちらの言い分をくみ取ってもらわなければ、近鉄はおろか、日本の他球団でもプレーができないという、いわば忠告の意味合いも含まれているわけだ。
両者の「視点」は、完全に違っていた
しかし、両者の「視点」は、完全に違っていた。このままでは、野球ができなくなると考えるのは、日本だけを見た発想に過ぎなかった。米国では関係ないのだ。
近鉄の球団社長・前田泰男は、野茂からの「任意引退同意書」を受け取った後、コミッショナー事務局に問い合わせていた。そこで初めて、アメリカに渡れば、野茂はフリーエージェントとなることに気づくのだ。
まさしく、野茂と団野村の“思惑通り”のシナリオだった。