近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄の会見直前、近鉄は球団旗を外した…「メジャー挑戦」電撃発表の舞台裏 記者が明かす「野茂と近鉄の視点は、完全に違っていた」
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph byJIJI PRESS
posted2024/05/02 11:05
1995年1月9日、メジャー挑戦表明の会見を行った野茂英雄。その直前まで続けていた近鉄との交渉を当時の番記者が振り返る
1月9日の会見場には全国メディアが集結
慌てた球団は、複数年契約という野茂側の“表向きの要求”を呑むという譲歩案を携え、年明けの1月7日に野茂と非公開の会談をセット。東京や大阪では記者に感づかれると考え、近鉄系列のホテルがある名古屋を選んだ上で、極秘の残留交渉をしていたのだという。
その席で野茂は「メジャーに行かせてください」の一点張りだったという。「任意引退同意書」という“言質”の前に、球団側はもはやなすすべなしだった。
1995年1月9日、それが公的には3度目の契約更改交渉だった。
大阪市内のホテルの一室が、会見場に設定された。普段は関西の新聞、テレビ各社の近鉄番記者を合わせても、10人程度しか出席しない。だから、宴会場のような広いスペースではない。そこに、全国から記者たちがどっと詰めかけてきた。
そのとき、私は近鉄番記者の「幹事社」を務めていた。球団広報に、報道陣側の要望をまとめて伝えたりする橋渡し役で、通例は年ごとの交代制。だから、この日の野茂の会見が事実上の“初仕事”だった。
『野茂マリナーズ入り 大リーグ武者修行に』――。(スポーツ報知1月9日大阪版 一面)
その日の朝、スポーツ報知が一面で報じた大ニュースが全国を駆け巡っていた。
ロッカーに貼られたMLB選手たちのカード
1994年シーズンは野茂の二軍調整が続いていたことで、私にも二軍の取材機会が増えた。ある日、藤井寺球場のロッカー内で、別の選手の取材を行う機会があった。普段は立ち入り禁止のスペースだが、他の記者がいなかったこともあってロッカーに入って話を聞いたのだ。
そこから、出るときだった。