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「遊びたいので、もう辞めたい」監督に伝えた日…一度“競技を離れた”山本有真(24歳)を変えた亡き母の存在「お母さんの分まで陸上を…」 

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佐藤俊

佐藤俊Shun Sato

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photograph byTakuya Sugiyama/JIJI PRESS

posted2024/05/01 11:05

「遊びたいので、もう辞めたい」監督に伝えた日…一度“競技を離れた”山本有真(24歳)を変えた亡き母の存在「お母さんの分まで陸上を…」<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama/JIJI PRESS

パリ五輪出場を目指す山本有真(積水化学)。右は国体5000mで優勝した大学時代

「実業団で働いて走ろうという気はまったくなかったですし、大学に行って陸上を続けたいとも思っていなかったです。どっちかというと普通の女子大生としてキャンパスライフを送って、友人とはっちゃけて遊びたいと思っていました(笑)。でも、たまたま名城大学から声が掛かったんです。そんな強い大学から声がかかると思っていなかったので、じゃあ頑張ろうって行くことに決めました」

 名城大は全国でも屈指の駅伝強豪校。山本も厳しい練習に打ち込むことになる。

「高校の時は、遊び半分、本気半分みたいな感じで陸上をやっていたんです。でも、名城は駅伝の日本一の大学なので、集まってくる子が日本のトップレベルなんですよ。最初は、そういう子たちと一緒に練習するのが新鮮だったんですけど、慣れてくると……」

 山本は入学前から陸上部に染まらない環境を望んでいた。スポーツ推薦で入学した学生は、練習場が近い法学部を選択することが多い。だが、山本は、人間学部を選択し、市内中心部にあるナゴヤドーム前のキャンパスに通っていた。そこで部活とはまったく関係がない一般の学生と交友関係を広げていった。

「みんなと授業を受けている時は普通に楽しいんですよ。でも、授業が終わったら、友人はバイトや遊びに行くんですけど、私は部活。『カラオケ行こう』と誘われても『ごめん、行けないわ』と断ってばかり。『バイバイ』と笑顔で別れた後、みんながめちゃめちゃ羨ましくて、いつも泣きそうになっていました。陸上に価値を見出せなくて、なんで走っているんだろうと思うこともありました」

「遊びたいので、もうやめたい」監督に伝えた日

 それでも、競技面では1年生の時から主力だった。全日本大学女子駅伝(杜の都)では4区区間賞、大学女子選抜駅伝(富士山女子)は4区区間賞でチームの優勝に貢献した。

「大学に入った時は、4年間で一度、駅伝を走れたらいいなって思っていたんです。そうしたら1年目で2つの駅伝を走れて目標を達成し、個人種目もインカレの1500mで3位に入れたんです。それで、かなり満足しちゃいました(笑)。大学2年の時もやる気はあったんですけど、両足が足底筋膜炎になってしまって……。もう、死ぬほど足が痛くて、どうにもならなかったです」

 足底筋膜炎は朝、床に足を付けただけで激痛が走る等の症状が出るランナーに多い故障だ。両足ともなると普通に歩くことさえ厳しくなり、テーピングなどを施さないと走れない。そういう中、山本は日本インカレ1500mで予選を突破したが、決勝は痛みで出走できなかった。駅伝出走も危ぶまれたが、痛みを我慢しながら練習をこなし、杜の都2区2位、富士山女子は4区区間賞でともに優勝に貢献した。

「足がギリギリの状態で、駅伝を走って優勝できたので、やり切ったな、もう陸上はいいやって思いました。それで駅伝が終わった翌年の1月に監督とコーチのところに行って、『遊びたいので、もうやめたい』と伝えました」

 山本は「ダメだ」と言われても実家に帰る覚悟だった。米田勝朗監督は山本の頑固さと意志の強さを理解しており、あえて何も言わずに山本の離脱を受け入れた。

【次ページ】 山本を変えた“亡き母の存在”「お母さんの分まで陸上を」

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