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「遊びたいので、もう辞めたい」監督に伝えた日…一度“競技を離れた”山本有真(24歳)を変えた亡き母の存在「お母さんの分まで陸上を…」
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byTakuya Sugiyama/JIJI PRESS
posted2024/05/01 11:05
パリ五輪出場を目指す山本有真(積水化学)。右は国体5000mで優勝した大学時代
山本を変えた“亡き母の存在”「お母さんの分まで陸上を」
山本は実家に戻り、友人と旅行に出かけたり、カラオケに行ったり、出来なかった「遊び」を楽しんだ。2月、陸上部が合宿に入る際、電話がかかってきたが、「行かない」と伝えた。しかし、遊んでばかりいると、最初は新鮮だが、やがて飽きてくる。「遊びの毎日」が「単調な日々」に変わり始めた3月、学生ハーフで小林成美(住友海上)と荒井優奈(積水化学)がユニバーシアード出場の切符を手にしたことが耳に入った。
「それを聞いて、すごいなぁと思ったんです。ふたりとは同年代でずっと一緒にやってきたし、ライバルみたいな意識もあったんです。そのふたりが結果を出して、日本代表として世界に行く、上のレベルに行くのは羨ましい。私も行きたいって思ったんです」
ライバルの躍進によって陸上への気持ちに火がついた。だが、それ以上に山本の気持ちを陸上に駆り立てたことがあった。
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姉から聞いた亡き母のことだった。
山本の母親は、3歳の時に亡くなった。当時、13歳だった姉は、母のことをよく覚えており、山本にどんな母親だったのか、教えてくれた。
「お母さんは私を産む際、障害を持っていたので、産まない方がいいと医者に言われたらしいんです。でも私を産んでくれて、その3年後に亡くなりました。自分がいなければ今も元気だったんじゃないのかな、自分のせいで亡くなったんじゃないのかなってすごく考えました。でも、お姉ちゃんに、『お母さんは水泳とかスポーツが好きだった。お母さんの分まで陸上をがんばってほしい』と言われて……。確かに、そうだな。今、健康でスポーツができていることってありがたいこと。お母さんの分まで頑張って走ろうと思ったんです」
競技人生のターニングポイント
3月、山本は米田監督に部に戻る意思を伝えた。監督は、山本の申し出を1月の時と同じく、何も言わずに受け入れた。
「ここで陸上に戻って来れたのは、私の競技人生の中で大きなターニングポイントになりました。そこからちゃんとやろうっていうのは失礼かもしれないけど、ただ駅伝を走れればいいとかではなく、日本インカレで優勝したい、日本選手権に出たいとか、目標がどんどん高くなっていったんです」
陸上に戻ってきた山本は、2カ月ほどで自分の走りを取り戻し、3年の時は日本選手権1500mで6位、日本インカレ1500mは2位。杜の都は1区区間賞、富士山女子は4区区間賞で優勝に貢献した。4年時は、日本インカレ5000mで優勝、杜の都3区区間賞、富士山女子5区区間賞でチームの優勝に貢献し、有終の美を飾った。
「大学はいろいろありましたけど、4年間やり切ったと思います。駅伝はすべて優勝できたのですが、得るものが大きかったです。追われる立場で勝ち続けるのはすごく難しくて、さらに勝ち続けるためには勝った時以上の走力や強さが求められます。大学で追われる側にいて、そこで打ち勝つためのノウハウを学べたのは、いい経験になりました」
「駅伝女」として、多くの記録と記憶を残し、個人としても強さを発揮した山本は、卒業後、実業団の強豪・積水化学に入社することになる。《インタビュー第2回に続く》
(撮影=杉山拓也)