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「天才棋士29歳・最期の奮闘」死の半年前にA級復帰…対局相手だった田丸昇九段が知る「西の村山vs東の羽生善治」生涯の名局と『聖の青春』 

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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posted2024/03/14 17:03

「天才棋士29歳・最期の奮闘」死の半年前にA級復帰…対局相手だった田丸昇九段が知る「西の村山vs東の羽生善治」生涯の名局と『聖の青春』<Number Web> photograph by Kyodo News

98年2月、B級1組順位戦で田丸昇八段(手前右)に勝ち、A級カムバックを決めた村山聖八段

 ニコニコしている村山を見て森が「何かいいことがあったんか」と聞くと、村山は「僕、今日で20歳になったんです。20年も生きられてうれしい」と語った。闘病生活を長く送ってきた村山の死生観を表している。

 なお、村山は18歳の頃から、あるボランティア団体への寄付活動を続けていた。東南アジアやアフリカの貧しい子どもたちを支援するためだ。弱者や子どもたちを助けたい気持ちは、療養所時代の経験に基づいた。

王将戦で谷川に4連敗…思わず涙をこぼした

 92年の王将戦リーグで村山六段は羽生王座らを破り、プレーオフでも羽生に連勝。これは大きな自信になった。そして、1993年1月から始まった王将戦七番勝負で谷川浩司王将に挑戦した。奨励会入会時に目標にした谷川と、タイトル戦の大舞台で初めて対戦した。森は弟子の晴れ姿に際して、紋付き袴の和服を仕立ててあげた。

 王将戦第1局は村山が終盤で勝ち筋を逃して敗れた。第2局も終盤で勝機を逸した。第3局からは和服を着用した。思ったよりも楽だったという。しかし、以降の対局でも驚異の終盤力を発揮できず、4連敗で敗退した。村山は第4局の終局後に「実力が足りませんでした」と語り、思わず涙をこぼした。

 95年1月17日の早朝、阪神淡路大震災が起きて各地に甚大な被害をもたらした。村山は前田アパートにいて、何千冊もの漫画本などが崩れ落ちて額に当たったが、大したケガはなかった。しかし、16歳の弟弟子のF3級が圧死した。村山は大きなショックを受け、病状が悪化したこともあり中之島の住友病院に入院した。

A級昇級、研究会で詰みの有無を聞かれると…

 村山七段は1994年度のB級1組順位戦で昇級候補だった。1月下旬には病院を無断外出し、タクシーで関西将棋会館に向かった。深夜に及ぶ激闘の末に小林健二八段に勝った。2月中旬には病院を強行退院し、東京で私こと田丸八段と順位戦で対戦した。そして村山は田丸に勝ち、A級に昇級した。

 名人に次ぐクラスに到達した村山は、《お金も名誉もいらない。頂点に立つ事、それだけだ》と、『将棋世界』誌に心境を書いた。また、あるインタビューに答えて「将来は将棋と縁を切り、本を好きなだけ読んで寝て暮らしたい」と語った。

 95年の春、村山は東京に移りたいと思った。

 羽生名人、森内俊之八段、佐藤康光七段、郷田真隆五段など、同世代の精鋭たちがいる東京で将棋を磨きたかった。森に相談すると『将棋世界』編集長の大崎善生を紹介された。

 森とは公私ともに親しかった。

 大崎は、千駄ヶ谷の将棋会館に近い物件という村山の希望を聞いて何件か当たった。坂がきつい、近くに墓場がある、などの理由で見送った後、広めのワンルームマンションに決まった。村山は大阪から移転すると、部屋の合鍵、貯金通帳、印鑑を大崎に渡した。森の要望で大崎は師匠代理として、村山の世話をすることになった。

【次ページ】 羽生名人に勝った生涯の名局と、ガン発覚

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