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「自分たちは野球をやっていいのだろうか」被災地ゆえの苦悩も…《センバツ決定》能登地震で被害の日本航空石川「甲子園で伝えたい“一生懸命”」

posted2024/01/28 06:01

 
「自分たちは野球をやっていいのだろうか」被災地ゆえの苦悩も…《センバツ決定》能登地震で被害の日本航空石川「甲子園で伝えたい“一生懸命”」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

輪島市内で被災した航空石川高の福森誠也投手。センバツ決定の報を受けて涙する場面も

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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 あと3人、あと2人……。

 1日1日の夜。日本航空石川の中村隆監督は、部員の安否確認をするために、LINE画面をずっと見つめていた。

「大体の子はすぐに連絡が来たんですけれど、3学年を合わせると2人、どうしても連絡がつかなかったんです。全員と連絡が取れたのは翌日になってから。まず、部員は無事だったのでホッとしました」

 元日の夕方に発生した能登半島地震。

 日本航空石川は、石川県以外にも近隣の富山、福井をはじめ関西や東海圏、九州など広範囲出身の選手がいる。3学年を合わせると90人近い部員の返事を祈るような気持ちで待ち続けた。テレビで流れる能登半島の現状は刻一刻と明らかになり、その度に心が張り裂けそうになる。見慣れた建物、毎日車で走っていた道路……。だが、いつも見ていた光景はそこにはなかった。

 大きな火災が発生した輪島市内の中心部には多くの知り合いもいた。

指揮官は阪神大震災も経験

 その惨状が、中村監督のかつての記憶と少しだぶった。

 小学校4年生だった当時、中村監督は阪神淡路大震災で被災した。神戸市西区の自宅で経験した震度6強の地震直後のことは今でもはっきりと記憶している。

「早朝の真っ暗な中でいきなり大きな揺れが来て、まず家の外に飛び出しました。裸足だったので割れた食器とかガラスの破片を踏んでしまって、足の裏が血で真っ赤になっていて……。でも、その傷の痛みよりも、とにかく早く外に出ようと必死だったのを覚えています」

 外に出ると、家の屋根瓦が落ち、周囲には一部が崩壊した家もあった。その後、避難所での生活が始まり、数週間後、通っていた小学校の野球チームのグラウンドに仮設住宅が建っていった。子ども心に“遊ぶ場所がなくなってしまうんかな”と不安になることもあった。

 今回の震災後、自宅待機の期間を経て、兄弟校である山梨の日本航空高校の配慮もあり、練習の拠点を山梨県に移した。

 富士川町にある22年に廃校となった増穂商業高校グラウンドを練習場として貸してもらい、日本航空高校の室内練習場は時間を見て分け合いながら使用させてもらっている。

【次ページ】 「自分たちは野球をやっていていいのだろうか」

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