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「本業はコンビニ経営」「毎日おにぎりを100個握る」…《センバツ21世紀枠》“極北の公立校”別海高を甲子園に導いた島影隆啓監督って何者?
posted2024/01/28 11:00
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph by
JIJI PRESS
札幌から、車で2日がかり。初めて訪れた別海高は遠かった。
中間あたりの帯広で1泊してもあまり「真ん中感」がなくて、高速で釧路を抜けて、さらにまたひとっ旅だ。右も左も、果てしない丘陵が広がって、「どこからエゾシカが飛び出してくるかわかりませんから」と聞いていたので、そればっかり気にしながら走っていたが、フッと見ると、バスの停留所の横で、「バス待ち顔」のシカが1頭立っていたりするから、もっと驚く。
北海道……いや、これが道東である。丘陵の荒野が牧場になり、牛の群れが見えてくると、やっと別海だ。ほとんどが、白地に黒のホルスタイン系。ここは、乳牛の町……いや、牛乳の町だ。
別海にうかがったのは、もう何年前になるだろうか。まだコロナも始まる前の、のんびりした頃だった。
「人ひとりに、牛が1000頭みたいな土地ですから」
島影隆啓監督からは、そう聞いていたが、その牛がデカい。本州でも乳牛はたまに見るが、あきらかにデカい。近くで見ると、白黒二色の屏風のようだ。牛の向こう側が、もう見えない。
「デカいですよ! 私の背丈ぐらいあるのが、ゴロゴロいますから」
そう言って笑う島影監督からして、177~178センチの100キロ超。別海の乳牛をタテにしたような<巨漢>なのである。
2016年の就任直後は野球部員は4人だけ
島影監督が、釧路・武修館高の野球部監督を辞して、故郷の別海町に戻ってきたのは、2013年。31歳の時のことだ。4月に辞めた武修館高はその夏、彼が育てた選手たちで、甲子園に出場した。監督とは、その頃からのお付き合いになる。
郷里・別海で3年間少年野球の指導をしてから、2016年に別海高の監督に就いたとき、野球部員はわずか4人だけだった。
「正直、最初の頃は辛かったですね。当然、連合チームでの公式戦でしたし、練習試合でも10点、20点取られて負けてばっかり。それでも、そんな野球部なのに、みんな一生懸命なんですよ。1年目の4人もそうだったし、その後入ってきた子たちも、10人がやっとのチームなのに、みんな一生懸命ボールを追って、バットを振るんですね。私、そこに救われたんです。こいつらを、なんとか勝たせてやりたい。最初の心の支えは、そこでした」
酪農の町という土地柄なのは、すでに報道で知らされているが、選手たちの中にも、酪農家の子息が何人もいる。
「酪農の家だと、毎日、朝・夕2回搾乳があるんです。ここはバスの便も少ないですし、自転車で通えない生徒は、どうしても親御さんの送り迎えが必要になるんですが、そうした制約の中でも、父兄の方たちがよく協力してくれるんです。本当に、頭が下がります。選手たちも、休みの日には、搾乳や牛の世話の手伝いをして。ありがたいと思ってるんでしょうね」