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《永遠のゼッケン48》Moto2クラス最初の勝者・富沢祥也がグランプリわずか27戦で見せつけた天賦の才
text by
遠藤智Satoshi Endo
photograph bySatoshi Endo
posted2024/01/25 11:00
置かれた状況にかかわらず、レンズを向ければいつでも屈託のない笑顔を返してくれた富沢祥也
当時、MotoGPクラスでは、ヤマハのバレンティーノ・ロッシとホルヘ・ロレンソが熾烈なチャンピオン争いを繰り広げていた。いつも仲間に囲まれているロッシに対して、ロレンソは孤高のライダーだった。言葉を変えれば「ともだちのいないライダー」だったが、ロレンソが過去愛用していたゼッケン「48」をしょーやがつけていたことから、ロレンソと3歳年下のしょーやは友達になっていく。
ケータリングのスタッフやトラックドライバーなどなど、パドックで働く人ならだれもが、気さくで人なつっこいしょーやに魅了されていたが、「ホルヘさんと仲はいいです」というしょーやには本当に驚かされた。これほど多くの人を虜にしたライダーを僕はほかに知らない。
実際、しょーやが亡くなったあと、ロレンソはメーカーこそ違ったがヘルメットをしょーやと同じデザインにして、次戦のアラゴンGPに出場している。この大会はサーキットを訪れていたファン・カルロススペイン国王も出席して追悼式が行われ、世界的なニュースになった。
「しょーやが生きていたら…」
しょーやが亡くなったときの悲しみは、いまでも言葉には出来ない。サンマリノGPの決勝レースで転倒し、後続車2台に轢かれ、サーキットに近いリッチョーネのチェッカリー二病院に運ばれたが、轢かれたときの衝撃で大動脈が破裂、出血がひどかったことで帰らぬ人になった。
いまも海外に遠征する前に千葉県旭市のしょーやの実家を訪れ、家族としょーやの思い出話に花が咲く。そして「しょーやが生きていたら、いまごろどのチームにいたかなあ」と思うのもいつものことである。
19歳という若さ。志半ばにして逝ったしょーやのために、翌年、僕はしょーやの写真集を出版した。その冒頭に書いた文章を再び掲げたいと思う。
走る才能は天下一品。勢いあまってすぐに限界をこえていくところが唯一の欠点だったが、世界の頂点に立つライダーの若いときというのは、いつだって、そういうものだ。
物怖じしない明るい性格。それでいて繊細だった。
速いヤツは最初から速いというのが、この世界の決まり文句である。
初めて彼の走りを見たとき、僕は、世界チャンピオンになれるライダーかも知れないと思った。