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《永遠のゼッケン48》Moto2クラス最初の勝者・富沢祥也がグランプリわずか27戦で見せつけた天賦の才
posted2024/01/25 11:00
text by
遠藤智Satoshi Endo
photograph by
Satoshi Endo
富沢祥也という才能あふれるライダーがいた。1990年、千葉県旭市に生まれ、高校卒業と同時にロードレース世界選手権の250ccクラスにデビューすることが決まった。そして、卒業式を待たず、2009年2月、成田空港から同級生に見送られ、彼は所属することになるフランスの「チーム・CIP」の本拠地、マルセイユにほど近いアレスの街へ向かった。
以来、富沢はチームのエースとして活躍する。1年目はアプリリアとホンダのワークスマシンがタイトル争いをする中で、ホンダの市販レーシングマシン「RS250R」で戦った。このマシンでは優勝争い、表彰台争いに加わるのは難しく、15位まで与えられるポイントを獲得するのも容易ではなかったが、10位を最高位に総合17位という結果を残した。
数字以上に富沢の評価は高く、チーム・CIPは富沢が他チームに引き抜かれることを心配し、どこよりも早く翌年の契約を済ませた。10年からはイコールコンディションを目指し、250ccクラスは4ストローク600ccのオフィシャルエンジンを搭載するMoto2クラスにスイッチすることが決まっていた。
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その最初のレースとなった開幕戦カタールGPで、富沢は初優勝を達成。以後も素晴らしい走りを見せるが、この年の9月、イタリアのミサノで開催された第11戦サンマリノGPのレース中に転倒。後続車に轢かれ、帰らぬ人になった。このとき、富沢は19歳。グランプリにデビューして、わずか27戦目のことだった。
もし、富沢が生きていたらどんな選手に成長したのだろう。Moto2クラスでチャンピオン獲得が期待されたことはもちろん、最高峰MotoGPクラスでも活躍するはずの逸材であり、久しぶりにわくわくさせてくれるライダーだった。
思い切りの良すぎる走りに魅了され
富沢との出会いは彼が高校生の頃に出場していた全日本ロード時代に始まるが、その頃は、国内のレースの取材になかなかいけないこともあり、年に1度か2度会う程度だった。その後、グランプリへの参戦が決まり、ヨーロッパ出発前に彼の地元で初めて富沢祥也というライダーをしっかり取材した。
その後、モトクロストレーニングの取材もしたが、思い切りの良すぎる走りに魅了された。わずか数回の取材で僕と彼の距離は一気に縮まり、僕は「しょーや」と呼ぶようになる。デビュー前にスペインで行ったテストでは、グランプリ初経験のしょーやの質問攻めが始まり、それからは、これまで見てきたライダーたちの走り方や考え方などなど、あれやこれやを伝授するようになっていくことになるのだ。