「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「広岡監督は、もういいや」日本一の直後に不満が噴出…なぜ広岡達朗の“最強ヤクルト”は崩壊したのか? 八重樫幸雄に聞く「広岡野球の本質」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2024/01/19 11:04
1978年、初のリーグ優勝・日本一に輝いたヤクルトだったが、翌79年には最下位に転落。広岡達朗もシーズン途中に監督を退任した
八重樫が口にした「新田さん」とは、往年の名選手である小鶴誠らを育て、松竹ロビンスの監督を務めた新田恭一のことである。新田と交流のあった広岡は、彼が唱えた「新田理論」の信奉者でもあった。
「新田さんの考えは、バッターは最初に構えを作っておく。そして、自分で決めたトップの位置を変えずにそのまま打ちにいくという指導。でも、僕の場合は投球に合わせて体をひねって、タイミングを取りながらトップを作っていくという打ち方だったから、正直言えば合わなかったね。だって、どこでタイミングを取ればいいのか、全然わからなかったから(笑)」
打席に入るとすぐにトップの位置を固定する。そして、ヒッチやスウェイなど、余計な動作を排除し、決して反動を使うこともなく、そのままバットを振り下ろす。それこそ、広岡が、そして新田が理想とするバッティングスタイルだったという。
「だから、少しでも動いたらダメ。的確にとらえることを重視する。遠くに飛ばすというのは、その人の持っている資質で勝負する。そんな考えでしたね。僕には合わなかったけど、船田(和英)さんには合っていたみたいで、いつも“あの理論はいい”って言っていました。最初に体を開いてヘッドを残したまま回転をするんだけど、“この理論でオレは変わった”って言っていましたね」
中村天風、藤平光一、そして新田恭一……。かねてから広岡は、思想家、哲学者、武道家など、異業種の偉人、達人から積極的に教えを請うている。彼が個人的に師事していた「メンター」たちについては、改めて詳述したい。
「厳しく基本を徹底すれば、必ずチームは強くなる」
76年途中から監督代行となった広岡は、78年の日本一を置き土産として、79年シーズン途中にチームを去った。およそ3年間にわたる監督生活において、広岡はスワローズに何を残したのか? 八重樫の答えは明快だった。
「それは、そのときに指導を受けた若手、中堅選手たちだと思います。角(富士夫)、杉浦(享)、渡辺(進)、水谷(新太郎)、そして僕。こうした選手たちが広岡さんの時代に育って、その後に長くチームを支え、現役引退後もコーチになってチームに残ったわけですから。特に水谷なんかは、広岡さんにみっちり鍛えられました。彼にとっては、広岡さんとの出会いはとても大きかったと思いますね」