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14年の歳月を経て、日産自動車野球部は、なぜ「活動再開」することになったのか? その「想い」に迫る 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byYuki Suenaga

posted2023/12/27 17:01

14年の歳月を経て、日産自動車野球部は、なぜ「活動再開」することになったのか? その「想い」に迫る<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

12月21日、日産自動車株式会社で記者会見が行われた。監督に伊藤祐樹氏(右)とヘッドコーチに四之宮洋介氏(左)が就任した

 休部になってからは、伊藤氏は日産自動車に勤務しながら少年野球教室などの活動を続けた。また昨年からは三菱自動車岡崎に出向してコーチを務めていた。四之宮氏も日産自動車に勤めながら母校青山学院大学を指導するなど、細く長く「日産自動車の野球」の命脈を保ってきた。

 それだけに2人の表情からは「万感の想い」のようなものが感じ取れた。

 反対に言えば、14年前の「日産自動車野球部休止」のニュースの衝撃はそれほど大きかったということだ。

 日産自動車本社硬式野球部は、1959年に活動開始、1965年には都市対抗野球に初出場し、以後29回の出場を数え、1984年と1998年には優勝を果たしている。準優勝は3回。社会人野球日本選手権大会にも16回出場し、2003年に優勝。こちらも準優勝3回。

 プロ野球には阪急、広島で活躍した左腕投手渡辺弘基、1985年の阪神優勝時の先発投手の一角だった中田良弘、阪神、ダイエーで活躍した投手の池田親興、同じく阪神で活躍した投手の川尻哲郎、日本ハム、ヤクルトの救援投手だった押本健彦、さらには広島の名内野手梵英心、西武の先発投手野上亮磨など多くの人材を輩出している。

 また、活動休止後、他の社会人野球チームを経てプロ入りした選手にはヤクルトの救援投手、久古健太郎、西武の外野手熊代聖人などがいる。

 そうした実績と共に、日産自動車本社硬式野球部は基本に忠実で、よく鍛えられた守備、走塁で知られたチームであり、プロ野球とは一線を画した「社会人野球らしいチーム」だったと言える。

 こうした「質実剛健」なチームカラーを愛する多くのファンがいた。また「ブルーバード」のエンブレムも野球ファンにはおなじみのものだった。

「企業の顔」が休部に追い込まれた背景

 一方で1986年には福岡県京都郡苅田町に本拠地を置く日産自動車九州硬式野球部も発足。こちらも都市対抗野球に出場6回、社会人野球日本選手権大会に出場9回の強豪チームとなった。「日産自動車」は社会人野球界に確固たる名声を築いていたのだ。

 しかし2009年2月、日産自動車は、卓球部、陸上部と共に、本社、九州の硬式野球部をこの年限りで休止すると発表した。

【次ページ】 「企業の顔」が休部に追い込まれた背景

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