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藤井聡太は「むしろ負けてよかった」…師匠・杉本昌隆がそう振り返る一局とは?「将棋の神様が、わざと勝たせなかったのだろう」
text by
杉本昌隆Masataka Sugimoto
photograph byKeiji Ishikawa
posted2023/12/23 06:04
藤井聡太の師匠・杉本昌隆が「負けてよかった」と振り返る一局がある。その一局とは…
この時はまだ渡辺さんの優勢。それを名人は考えすぎました。もちろん、そんな単純な話ではないのでしょうが、この一時間で、形勢は逆転します。
形勢有利なほうがあれだけの長考をするというのは、得てしてよくない兆候です。
一般的には、長考は形勢が悪い時のほうが多いものです。いい手を見つけるのも難しい。仮にそれを一手見つけても、相手が最善手で対応してきたらやっぱり不利には変わりありません。だから、その先も含めてあれこれ考えることになる。逆に、形勢のいい時に最善手を見つけるのは、それほど難しくありません。リードを広げなくても、そこまで得をした差を保つだけでも勝てるからです。極端にいえば、最後の一手で五一対四九ならそれでいい。それは技術のあるトップクラスの棋士であれば、かなりのアドバンテージです。
しかし、渡辺さんがこの局面で長考するというのは、明らかに変調でした。
もっといい手があるように見えてしまった
最善手はやはり角を取る手。おそらく名人もそれは承知していたはずです。でも、もっといい手があるように見えてしまった。角を取るか取らないかで悩み、取らないほうを選びました。結論からいえば最善ではない手を選んでしまったのです。
これは罠ではありません。藤井としてはこれが渡辺さんにとって一番難しいと思って選んだ手です。ただし、6六角を選んだ時点で、それを取られても、最悪でもギリギリの形勢にはもち込める見通しは立っていたようです。
一見、藤井の指した手は苦しまぎれ。相当苦しい手に見えました。どうして渡辺さんはすぐに取らないのだろうと外野は不思議に思っていたくらいです。しかし、実際に盤上を見つめる二人はそのあたりの機微を敏感に感じ取っていたのでしょう。
ここで藤井は勝負になったと思ったはずです。苦しいながらも切り合いになってきた、そう感じたに違いありません。
度々対戦してきたからこそ、生じたプレッシャー
この瞬間から、逆転劇が始まりました。