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「ツバを吐いたのは私が悪い。でも言い分がある」“30年前の大騒動”をジーコ70歳が本音で語る「鹿島のようなクラブは世界にも…」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byKazuaki Nishiyama

posted2023/09/23 17:01

「ツバを吐いたのは私が悪い。でも言い分がある」“30年前の大騒動”をジーコ70歳が本音で語る「鹿島のようなクラブは世界にも…」<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

鹿島アントラーズでプレーした頃のジーコ。Jリーグチャンピオンシップでの“騒動”などを語ってくれた

「勝利に徹底的にこだわること、チームはファミリーであり、選手はあくまでもチームの勝利のためにプレーすること――。このジーコ・スピリットがクラブ全体に浸透し、なおかつ脈々と受け継がれているからだろう。こんなクラブは日本には他にないと思うし、世界でもあまりないんじゃないかな。

 私にとって、Jリーグの創設前夜に日本へ渡り、選手として、またテクニカル・ディレクターとしてアントラーズの発展と強化に携わることができたのは大きな誇りだ」

当初、監督を務めるつもりはなかったが…

 ブラジル最大の人気クラブ、フラメンゴで黄金時代を築き、セレソン(ブラジル代表)でも中心選手として活躍したこの世界フットボールのレジェンドは、現在ではJリーグを代表する強豪クラブとなった鹿島アントラーズの土台作りに選手として、またテクニカル・ディレクターとして重要な役割を果たした。結果的に、Jリーグと日本のフットボールの発展にも顕著な貢献をしている。

――当初、なぜ監督としてのキャリアを歩むことに積極的ではなかったのですか?

「私は、フラメンゴで生まれ育った。日本へ来る前、『自分が監督を務めるとしたらフラメンゴ以外にはありえない』と思っていた。愛するフラメンゴと対戦するのは耐え難いからね。

 しかし、ブラジルではクラブもメディアもファンも、非常に短期的な視野で結果を求める。フラメンゴで監督を務めても、すぐに最高の結果を出さなければ、ファンから罵倒される。だから、1989年にブラジルで選手生活を終えて以降、監督を務めることは全く考えなかった。

 だが1991年に日本へ渡り、最初は住友金属で、続いてアントラーズでプレーし、選手として引退した後もクラブの発展とチームの強化に携わって、強い愛情が芽生えた。だからこそ、1999年後半(成績不振に陥った)チームの緊急事態に際して総監督(注:事実上の監督代行)を務めた」

 ◇ ◇ ◇

 世界フットボールのレジェンドが日本へ舞い降りてから32年、Jリーグが創設されてから30年。この男は、鹿島アントラーズの強化とJリーグの発展に大きく貢献した。

 一方、日本代表は日韓2カ国開催の2002年ワールドカップ(W杯)で初めてGSを突破。多くのタレントを擁して「史上最強」と謳われ、2006年大会ではさらなる躍進が期待された。ジーコは2006年6月まで日本代表監督を務めた。しかし、国民の期待に応える結果を残すことはできなかった――。

第3回に続く>

#3に続く
ジーコ70歳「ミトマ、クボ、カマダ、エンドウは素晴らしい」絶賛の一方で…06年W杯惨敗後「フィジカルが最大の課題」と語った真意

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