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「ツバを吐いたのは私が悪い。でも言い分がある」“30年前の大騒動”をジーコ70歳が本音で語る「鹿島のようなクラブは世界にも…」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byKazuaki Nishiyama

posted2023/09/23 17:01

「ツバを吐いたのは私が悪い。でも言い分がある」“30年前の大騒動”をジーコ70歳が本音で語る「鹿島のようなクラブは世界にも…」<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

鹿島アントラーズでプレーした頃のジーコ。Jリーグチャンピオンシップでの“騒動”などを語ってくれた

「次に、この試合の主審にヴェルディと関係のあった主審(注:ヴェルディ川崎の前身である読売クラブでプレーした経験があった)を選んだのは間違っていた」

――これはその通りでしょうね。フットボールの、あるいはスポーツ全般の常識として、片方のチームに関係がある人物を審判員に選ぶのはおかしい。

「さらに、日本の審判が強豪や名門に有利な笛を吹く傾向があることは以前から指摘していたが、この試合でもヴェルディに有利な判定が多かった。PKが与えられたプレーも、私の目にはオブストラクションと映った(注:仮にオブストラクションの判定であれば、PKではなく間接FKが与えられたはずだった)。」

――今、動画を見ても、かなり微妙なプレーですね。ただ、高田主審の名誉のために言うと、彼は1986年のW杯で日本人として初めて主審を務め、1990年W杯でも主審を務めた実績があり、1993年のJリーグ最優秀審判に選ばれていました。

「当時の日本では、最高の審判の一人だったのだろう。ただし、あの頃の日本の審判のレベルは決して高くなかった。今とは比べものにならない」

こんなクラブは世界でもあまりないんじゃないかな

――結局、鹿島はJリーグ初年度は準優勝。1994年のファーストステージに兄エドゥーがコーチとなり、あなたは1994年6月に引退してクラブのテクニカル・ディレクターとして強化を担当します。1994年セカンドステージからエドゥーが監督に就任しましたが、2季続いて優勝争いに加わることができず、1995年限りで退任を余儀なくされます。

「なかなか結果は出なかった。それでも、エドゥーは若手、中堅を積極的に起用し、彼らが大きく成長した。彼は、その後、アントラーズが黄金時代を築く土台を作ったと思う」

――1996年にはジョアン・カルロスが監督に就任し、クラブ史上初のJリーグ制覇を成し遂げます。1997年はJリーグでは準優勝ながらJリーグカップと天皇杯で優勝し、1998年にJリーグで優勝すると、2000年はJリーグ、Jリーグカップ、天皇杯の三冠を達成。これまでJリーグを8度、Jリーグカップを6度、天皇杯を5度、アジア・チャンピオンズリーグを1度と計20のビッグタイトルを手にしており、Jクラブ中最多です。鹿島の強さの秘訣は?

【次ページ】 当初、監督を務めるつもりはなかったが…

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