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「フットボールの世界はクズばかり」なぜジーコ兄弟は“父が猛反対”→名手になれたか…日本代表“あのW杯惨敗の真相”もエドゥーが明かす
posted2023/09/03 11:02
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
REUTERS/AFLO
ジーコの兄であるエドゥーは、日韓W杯後に日本代表監督に就任した弟を支える立場となった。その経緯、そして当時の日本代表の状況とはどのようなものだったのだろうか。
アジア杯優勝で「この強化を続ければ…」
――2002年のW杯終了後、ジーコが日本代表の監督に就任。あなたがテクニカルアドバイザーを務めたわけですが、そのいきさつは?
「ジーコから『日本サッカー協会から、代表監督へのオファーを受けた。引き受けようと思うが、兄さんにもスタッフに入ってもらいたい』と言われた。鹿島のコーチになったときと同様、二つ返事で引き受けた」
――当時の日本代表は、「黄金のカルテット」と呼ばれた中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一、さらにはFW高原直泰、キャプテンのCB宮本恒靖ら日本のフットボール史上最高とも評されたタレント揃い。2002年の自国開催で初のベスト16入りを果たしており、メディアと国民は非常に大きな期待をかけていました。ジーコと共に、どのようなチーム作りを目指したのでしょうか?
「優れた選手を集め、彼らの個性を組み合わせてチームを編成し、試合を重ねながら連携を熟成させようとした。ブラジルスタイルと言っていい。ジーコとは『創造性溢れる攻撃的なチームを作って世界を驚かせよう』と話していた」
――2004年に中国で行なわれたアジアカップでは、苦しみながらも優勝します。
「完全アウェーの厳しい状況で、準々決勝ヨルダン戦(注:延長まで戦って1−1の同点で、PK戦による決着となった。日本は最初の二人がいずれも失敗して窮地に追い込まれたが、主将の宮本が『PKスポット周辺の芝が荒れている』と主審にアピールしてPKのサイドを変えることに成功。これで流れが変わり、辛うじて勝利を収めた)、準決勝のバーレ−ン戦(注:延長の末に4−3で勝利)と厳しい試合が多かったが、決勝の中国戦は快勝だった。
MFナカタ(中田英)、MFイナモト、MFオノ、FWタカハラら多くの主力を欠いての優勝だっただけに、大きな手応えを感じた。『この方向で強化を続ければ、2006年W杯ではきっと素晴らしい戦いができる』と確信した」
ドイツW杯の惨敗、敗因はどこにあったのか
――ところが、肝心の2006年W杯ではグループステージ(GS)を突破できませんでした。最初のオーストラリア戦で先制しながら、後半39分以降に3点を奪われて大逆転負け。クロアチアと引き分けたものの、ブラジルに1-4と大敗を喫しての敗退でした。オーストラリアに逆転負けした理由をどう考えますか?