野ボール横丁BACK NUMBER
「私は丸刈りが好きだ」前時代的“だから”好きだった金足農、それでもナゾな髪の強制…なぜ高校野球の髪型論議はズレるのか?「経験者の告白」
text by
中村計Kei Nakamura
photograph byNanae Suzuki
posted2023/09/03 17:01
「私は丸刈りが好き」。あるノンフィクション作家の回想(写真はイメージ)
なぜ金足農の「非合理性」に惹かれたのか
私が小学校から中学校に上がるとき、地元の少年野球チームでうまいと評判だった5、6人の選手たちが他の競技に流れた。そのうち何人かは丸刈りが嫌なのだと言った。その感覚をまったく理解できなかったものの、そんな疑問はどうでもよかった。それよりも、そのぶん競合相手が減るので、私はしめしめと思っていた。そして、こうも思った。「そんな軟弱なことを言うやつは野球をやる資格はない」と。今にして思うと、髪型にこだわった彼らは軟弱どころか、従来のルールに従っただけの私よりはるかに「自分」を持っていたというのに。
時代錯誤も甚だしいが、40年近く前の野球の世界には、そんな空気感が間違いなくあったのだ。典型的な精神主義である。そして今も、論理的な理由もないまま丸刈りを強要している高校を眺めていると、そんな思想が残っているのではと想像してしまう。いや、実際に残っているのだと思う。でなければ、これだけ非合理的な風習が、今の時代に公然とまかり通っているはずがない。
ただし、スポーツも、人間の感情も、すべてが合理的に片付くものではないのも事実だ。合理性と非合理性。そこが曖昧な部分もある。
だからだろう、あまりに合理性一辺倒の世の中になってしまうと、そこだけ時が止まっているかのような前時代的な野球に惹かれてしまうこともある。2018年に準優勝した金足農業は、まさにそんなチームだった。指導者は、ある意味、非合理性を信じていたし、選手たちもそこに自ら進んで乗っかっていた。そして、そこにはスポーツにおける普遍的な真理を感じられたことも確かだ。金足農業の野球は時代が一回りして「新しい」とも思えたし、誤解を恐れずに言えば、彼らの丸刈りは似合っていた。
郷愁と、変化と…
彼らがフィーバーを巻き起こしたのは平成30年、前元号の最後の年だった。しかし時代は、もはや令和だ。古き良き時代への郷愁も理解できるが、高校野球の現場も、それを観る側も、変わるべき部分はどんどん変わっていっていいのだと思う。髪型を自由にする程度のことで、これまで培ってきたものが廃れるほど高校野球というカルチャーは脆弱ではないはずだ。