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甲子園の風BACK NUMBER
連投の疲労、仲間との不協和音…江川卓“最後の甲子園”で何が起きていたのか? 呪縛から解放されたラストボールが「高校野球で最高の1球だった」
text by
安藤嘉浩Yoshihiro Ando
photograph byJIJI PRESS
posted2023/08/22 17:02
1973年、夏の甲子園で力投する江川卓。連投による疲労や得点力不足もあり、作新学院は2回戦で銚子商に敗れた
取材した限りでは、大橋さんのように江川と別の高校に行こうと考えるか、江川を意識しなかった選手が作新学院に入学した。
反対に、江川と一緒に甲子園を目指そうと考えた選手は小山を選択している。
「もし江川がうちに来ていたら、甲子園で3回ぐらい優勝したんじゃないかな。人生が変わっただろうね」と語ってくれたのは、小山の4番捕手だった金久保孝治さんだ。
自分たちも作新学院に負けない戦力だったと自負する。あとは、江川がいるか、いないか……。
「怪物」の動きは、本人の意思とは関係なく、周囲の人々に影響を及ぼし、運命を変えてしまう。ましてグルリと方向を変えたら、大きなしっぽに巻き込まれるような目に遭う人間もいただろう。
得点力不足に悩まされた作新学院
そして、ついに甲子園デビューを果たしたことで、いよいよ「怪物」は日本中の注目を集めることになった。
「怪物」とチームメートの苦悩は日に日に増していった。
それでも、最後の夏の栃木大会でも、江川は圧巻のピッチングを見せている。2、3回戦と決勝はノーヒットノーラン、準々決勝と準決勝は1安打完封。つまり5試合を投げ、被安打わずか2本で甲子園出場を決めたのだ。奪った三振は計75個。
ただ、怪物と仲間たちの苦悩が垣間見えるシーンもあった。
3回戦は振り逃げが1つだけというノーヒットノーランだった。捕手の小倉が後ろにこぼした。一塁に投げて間に合うタイミングだったが、「送球を受けた一塁手の鈴木(秀男)がベースを踏まなかった」と江川は先輩記者の取材で振り返った。
鈴木さんは「小倉の送球がそれたんだよ」と、ぼくに語っている。「江川の後ろで守るのも大変なんだ」という鈴木さんの証言はすでに紹介した。完全試合のプレッシャーから早く逃れたいと考えるチームメートが何人もいたとすれば……。チーム内の雰囲気が微妙になってたとしてもおかしくはない。
そして、圧倒的な投手力に反して、攻撃力に課題を抱えているのは明らかだった。栃木大会5試合で計19得点。得点差コールド試合は一度もなかった。だから全5試合とも9回まで戦い、江川の奪三振数も増えていった。
チーム打率は2割4厘。金属製バットの導入前年だったことを差し引いても、甲子園に出てくるチームの打率としてはかなり低いと言わざるを得ない。
甲子園でも作新学院の得点力不足は解消されなかった。
1回戦で先取点をあげたのは、まさかの柳川商だった。6回に江川が安打と右中間三塁打を打たれて失点したのだ。