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作新学院にとって江川卓の存在は大きすぎた…「とにかく異常。チームが壊されちゃう」50年前、“フィーバー”の渦中で苦悩した関係者たちの証言

posted2023/08/22 17:01

 
作新学院にとって江川卓の存在は大きすぎた…「とにかく異常。チームが壊されちゃう」50年前、“フィーバー”の渦中で苦悩した関係者たちの証言<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1973年、春の選抜で1大会60奪三振の記録を打ち立てた作新学院の江川卓。その後の“江川フィーバー”は本人やチームメートに苦悩をもたらした

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安藤嘉浩

安藤嘉浩Yoshihiro Ando

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1973年、作新学院のエースとして日本中を沸かせた江川卓。半世紀が過ぎた現在も「高校野球史上最高の投手」として語り継がれる「怪物」は、なぜ甲子園の優勝旗を手にすることができなかったのか。対戦相手やチームメートの証言から、“フィーバー”の渦中で苦悩した「高校生・江川卓」の現実に迫った。(全2回の1回目/後編へ)

◆◆◆

「腰ぐらいの高さのまま、100メートル先まで…」

 50年前、日本中の注目を集めた高校生がいた。「怪物」と呼ばれた作新学院(栃木)の江川卓だ。その剛速球はバットに当てることすらできない。ほとんどヒットを打たれることなく、甲子園にやってきた。

 小学生だったぼくが鮮明に記憶しているのは、柳川商(福岡=現・柳川)と対戦した1回戦。1973年夏、第55回全国高等学校野球選手権記念大会だ。

 江川が投球モーションに入ると、柳川商の打者はバントの構えをする。そこからバットを引いて打つ作戦を敢行した。それは「プッシュ打法」とも「バスター戦法」とも言われた。

 この夏、頂点に立った広島商の「バント戦法」と柳川商の「バスター戦法」は子どもたちの間でもちょっとしたブームとなり、ぼくらの三角ベースでも、みんなが真似をしたものだ。

 しかし、そんな戦法も怪物には通用しなかった。江川はおもしろいように三振を奪っていく。改めて調べると、5回までに6連続を含む10奪三振。頭のあたりに来た高めのボールを振ってしまう打者もいた。

 まるで、ぼくら子どもがバットを振っているようにさえ感じた。マウンドにいる「怪物」の姿が、やたら大きく見えたものだ。

 のちにぼくは朝日新聞で高校野球を取材するようになり、「怪物」と対戦した打者や球審をした審判員、そのピッチングを目撃した関係者、ファンに当時の話を聞いて回った。

「とにかくホップするんだ。ベルト付近と思ってバットを振ったら、頭の高さのボールだった」

「投球フォームに力感はないから、投げた瞬間はそんなに速く感じない。それが手元でグワーンと伸び上がってくる」

「カーブは2階から落ちてくる感じ。頭に当たると思ってよけたら、そこから曲がってストライクになった」

 なかには、ピッチングを見ていないのに、自慢する人もいた。

「なにがすごいかって、遠投だよ。ボールがスーッと伸びて、なかなか落ちない。腰ぐらいの高さのまま、100メートル先まで届いてしまうんだ」

【次ページ】 強力打線が23球目でようやく“初ファウル”

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