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「自分がジンバブエに行きます」甲子園ベスト8・おかやま山陽監督は、なぜ日本を飛び出した? 英語ができない野球青年の人生は“あるテレビ番組”で変わった

posted2023/08/20 11:05

 
「自分がジンバブエに行きます」甲子園ベスト8・おかやま山陽監督は、なぜ日本を飛び出した? 英語ができない野球青年の人生は“あるテレビ番組”で変わった<Number Web> photograph by KYODO

ジンバブエの選手を母校に招き、指導するおかやま山陽監督の堤尚彦。ジンバブエに初めて足を踏み入れたのは青年海外協力隊の隊員としてだった

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堤尚彦

堤尚彦Naohiko Tsutsumi

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KYODO

 この夏、日大山形、大垣日大、日大三と日大付属の甲子園常連校を立て続けに破り、ベスト8入りを果たしたおかやま山陽高校。
 そのチームを率いたのが、堤尚彦監督だ。アフリカで野球の普及に関わり、甲子園も「世界に野球を普及させるため」目指すという、個性派指揮官はどのような人生を歩んできたのか。知られざる青年時代を『アフリカから世界へ、そして甲子園へ 規格外の高校野球監督が目指す、世界普及への歩み』(東京ニュース通信社、2023年7月発行 講談社発売)から抜粋して紹介する。(全7回の第5回/初回は#1へ)

はじまりは、あるテレビ番組だった

 東北福祉大の3年生だった1993年の夏。仙台市内のアパート自室の片隅にある、小ぶりなテレビに映し出されたメッセージが、その後の私の人生を大きく変えていく。

「道具がない、グラウンドがない、お金がない。そんなことは問題じゃない。最大の問題は、自分の後、野球を教えに来てくれる日本人がいなくなることなんだ」

 ブラウン管に映し出されたのは、青年海外協力隊の初代野球隊員として、ジンバブエの子どもたちへの野球普及に尽力した村井洋介さんの悲痛な訴え。見た瞬間、「オレがやらなきゃ!」という使命感が衝動的に芽生えた。番組を放送していたテレビ局の電話番号を調べ、アパートに設置されていた電話の受話器を握りしめた。そして、電話口に向かって宣言した。

「番組を見ました。自分がジンバブエに行きます」

青年海外協力隊入隊のため、受験

 対応してくれたテレビ局の社員が、親切にもJICA(当時・国際協力事業団、現・国際協力機構)の窓口を紹介してくれた。所定の試験を受験し、青年海外協力隊員としてジンバブエに赴任を希望したらどうかというアドバイスだった。

 その勧め通り、JICAに連絡し、入隊希望者に課される各種試験を受験した。青年海外協力隊は入隊希望者が多く高倍率の狭き門で、4年生の5月に受けた1回目の試験は残念ながら不合格。だが、私はこれしきのことで(くじ)ける人間ではない。中学時代の進学塾の入塾テストで不合格となるも、再挑戦してクリアしたときと同じように「なにくそ!魂」を全開にし、同年秋、2度目の挑戦で突破した。入隊試験は、筆記だけでなく、野球の指導に必要な技術があるかを確かめる試験も課される。当時は、ノックでどれくらい狙ったところに打球を飛ばせるか、日本体育大のソフトボール部を相手に、試合形式での試験も行われた。一線級の大学生投手の速球に他の受験者は手も足も出なかった中、きっちりバットに当てられたのは密かな自慢だ。

JICA合宿の食事が美味しい理由

 晴れて青年海外協力隊への加入が決まると、福島県の施設で合宿形式の研修が始まった。合宿の内容は、語学を別にすると何もない場所で飲料水を確保したり、火をおこしたり、暴漢から身を守るための護身術を身に付けたり、食料を確保するためにニワトリを解体したりなど、さながら“サバイバル術”の研修だった。

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