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「自分がジンバブエに行きます」甲子園ベスト8・おかやま山陽監督は、なぜ日本を飛び出した? 英語ができない野球青年の人生は“あるテレビ番組”で変わった
text by
堤尚彦Naohiko Tsutsumi
photograph byKYODO
posted2023/08/20 11:05
ジンバブエの選手を母校に招き、指導するおかやま山陽監督の堤尚彦。ジンバブエに初めて足を踏み入れたのは青年海外協力隊の隊員としてだった
合宿中の食事の多くは、ビュッフェ形式で、味も美味しいし、栄養バランスもばっちり。高カロリーなメニューも多く、ついつい食べ過ぎてしまうほどだった。なぜここまで食事が充実しているかが気になり理由を尋ねると、「発展途上国に派遣された隊員は、食べ物の確保に苦労したり、現地の味付けが合わなかったりで痩せてしまうので、あらかじめ太っておいた方がいいから」とのこと。約3カ月の合宿研修で、現地で生き抜くための知識と若干の脂肪を蓄え、1995年12月にジンバブエ共和国へと渡った。
活動拠点はブラワヨ
ジンバブエ共和国は、アフリカ大陸の南部に位置する共和制国家。一般的には「ジンバブエ」と呼ばれるため、本書でも以降はジンバブエと記す。
私が派遣されたのは、ブラワヨという都市だった。ブラワヨは、首都のハラレに次ぐジンバブエ第2の都市で、70万人に迫る人口を誇る大都市。街も発展しており、研修で身に付けたサバイバル術を必要とする場所ではなかった。
何はともあれ、このブラワヨで野球を普及させる活動が、いよいよ幕を開ける。仙台のアパートで見た村井さんのメッセージに使命感を駆り立てられた私は、24歳という若さもあいまって、やる気に満ちあふれていた。
ジンバブエのスポーツ事情
活動内容は、グラブ20個、バット2本、それに10球弱のボールをバックパックに詰めこみ、ブラワヨ市内の小学校や、日本でいうところの中学校・高校に該当するセカンダリースクールに出向き、野球を体験してもらうこと。訪問先の学校の寮に住み込み、休憩時間や放課後に、持参した野球道具を貸し出して野球に触れてもらった。
ジンバブエのスポーツといえば、過去2度のW杯出場経験があるラグビー、ケニアや南アフリカ共和国との共催でW杯を開催したクリケットが有名だ。そこにサッカー、テニスなどが続く。スポーツの普及にあたって、よく言われることだが、ボール一つと場所さえあれば楽しめるサッカーは、ジンバブエの少年たちの間でも根強い人気があった。
不安を吹き飛ばした「ある少年の言葉」
使用する道具も多く、覚えるべきルールも複雑な野球は、一般的に「普及が難しい」とされるスポーツである。苦戦するだろうと構えていたが、活動初期に出会った1人の少年が、私の不安を吹き飛ばしてくれた。