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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「イチローの打撃練習」の衝撃…“仰木マジックつなぎ役”は見た「イチロー選手は全部HR狙い。誰よりもはるか遠くに…場外弾も」
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2023/07/09 11:00
2003年、オリックス時代の大島公一。現在は法大で助監督を務めている
日本生命野球部は1929年創部の名門チームだが、大島氏が入社した1990年に日本選手権初優勝。1992年のバルセロナ五輪には、日本生命の1年後輩の杉浦正則らとともに代表に選ばれると、同じ法政大学出身の山中正竹監督のもと、銅メダル獲得に貢献した。
〈オリンピックでは本当に良い経験をさせてもらいました。まだプロの選手が選ばれる前の時代ですが、やはり日の丸を背負う重みはすごかったですね。その頃までスポーツをして怖さを感じたことはなかったのですが、初めて怖いと思いました。対戦した国では、キューバの選手ですね。あのスピード感や体の柔らかさ、体の回転などは、本当に目からうろこでした〉
“社会人ドラフト5位指名”の舞台ウラ
そして、この年のドラフトでスカウトから声がかかる。社会人でのドラフト指名について、大島氏はこのように振り返る。
〈やはり法政大学から日本生命と進みましたから、大学、企業のプライドがあって、会社としてもプロに送り出すのであれば、上位で、という感じでした。感覚的には2巡目くらいまでかな、と思ったのですが、名前が呼ばれなかった。もう無理らしいなと思ったら、近鉄のスカウトの方から「4巡目で」と電話がかかってきた。そこでいったんはお断りしたんですが、諦めきれなかったみたいで、5巡目で僕を指名したんですね。
その後、有名な河西俊雄スカウト部長にいろいろお話を伺って、法政OBの堀井和人スカウトとも話をする中で、プロにすごく行きたくなってプロ入りを決めたんです〉
1993年ドラフト5位で近鉄に入団。1年目のシーズン中に大島氏はすでに26歳になっていた。さらに当時、近鉄のセカンドには名手・大石大二郎がいた。
〈大石さんという大スターがいましたから、そのレベルを越えないと試合に出られない。そういう思いが強いし、すごい目標になりました。当時は鈴木啓示監督の1年目で、日生球場と藤井寺球場が本拠地。あまりお客は来ないうえに、厳しいヤジをいっぱいいただいた記憶があります。守備位置も三塁、二塁、遊撃といろいろなポジションを守りました。
2年目には大石さんと二塁のポジションを分け合うところまで行ったのですが、3年目、初めて100試合以上に出場したにもかかわらず、打率1割台で成績が良くなかった。ちょうど監督が鈴木さんから佐々木恭介さんに代わられたときで、トレードの話が出ました。非常に残念に思いましたね〉
イチローとの名コンビが誕生
1995年オフ、最下位に終わった近鉄は鈴木啓示監督が退任。このタイミングで大島氏は若手捕手の久保充広とともに捕手の高嶋徹、内野手の堀江賢治との交換トレードで、オリックス・ブルーウェーブに移籍した。大島氏自身は不本意だったが、このトレードによってイチローとの名コンビが誕生することになった。