「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
禁止、禁止、禁止…広岡達朗の“管理野球”の実態とは?「筋子のおにぎりを隠れて食べた」若松勉が明かす“巨人へのコンプレックスを払拭するまで”
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/07/13 17:29
弱小球団だったヤクルトスワローズの意識改革にまい進した広岡達朗。さまざまな禁止事項を設けて選手たちを管理した
それまで、鹿児島・湯之元をキャンプ地としてきたヤクルトは、78年春季キャンプをアメリカ・ユマで行っている。当時の松園尚巳オーナーに直談判したのが広岡だった。広岡の自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)から引用したい。
《われわれの初の海外キャンプは、アメリカアリゾナ州のユマで行われた。ユマにはパドレスがいる。大リーガーたちとの合同練習もできるだろう。あれもしたい、これもしたいといろいろ考えたが、技術的には短期間にそれほどの収穫は期待できない。
となると、狙いは当初の目的である意識革命である。大リーガーの生活にふれ、練習ぶりを見ることで、選手たちに目を開いてもらいたいと思った》
その効果はてきめんだった。若松が述懐する。
「いや、ビックリしましたね。そこは米軍の飛行場がある以外、本当に何もないところでした。パドレスのグラウンドが4面あって、さらにいろいろな施設もありました。“メジャーというのは、こんな立派なところで練習するんだな”って思いました」
「ジャイアンツだけじゃなく、上には上がいる」
このとき、ヤクルトナインは熱心にウエイトトレーニングに励むメジャーリーガーの姿を目の当たりにしている。今では当たり前の練習も、当時の日本球界にとっては斬新なものだった。さらに、広岡は「さらなるサプライズ」を用意していた。若松が続ける。
「ユマキャンプ全日程終了後に、そのまま日本に戻らずに1泊だったか、2泊だったかでロサンゼルスに行き、ドジャースタジアムで練習をさせてもらいました。そのときも、“メジャーはこんな立派なグラウンドで野球をするのか”と驚きましたね」
その結果、若松をはじめとするヤクルトナインには「ジャイアンツだけじゃなくて、上には上がいるんだ」と痛感する。さらに、「自分たちは、ジャイアンツ以上の経験と練習を積んだのだ」という自信が芽生えることになる。これこそ、広岡が望んでいた姿だった。広岡流意識革命は着実に実を結ぼうとしていた。こうして迎えたのが、1978年、球団創設29年目、ヤクルト初優勝の一年である――。
<#3に続く>