「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
禁止、禁止、禁止…広岡達朗の“管理野球”の実態とは?「筋子のおにぎりを隠れて食べた」若松勉が明かす“巨人へのコンプレックスを払拭するまで”
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/07/13 17:29
弱小球団だったヤクルトスワローズの意識改革にまい進した広岡達朗。さまざまな禁止事項を設けて選手たちを管理した
チームとして初のリーグ制覇、日本一を成し遂げた78年には、若松はこんな言葉を残している。
《今の監督になってから、勝利へのバッティングをみんな心掛けるようになった。僕でも大杉さんでも、そうだが、以前はとかく自分本位のバッティングをしてきましたよ。今はランナーがいる時は、外角打ちも引っ張って、そのランナーを進めることを考えます》(『ヤクルト初栄冠』/日刊スポーツ出版社)
その結果、チームは着実に白星を重ねていき、自分の成績も向上していく。「勝利の喜び」を知った若松は、ますます貪欲になっていく。若松はさらに、チームが変わっていった大きな要因の一つとして「ジャイアンツコンプレックスの払拭」を挙げる。
ジャイアンツコンプレックスの払拭のために
「広岡さんが監督になって3年目の78年に森昌彦(現・祇晶)さんがコーチとしてヤクルト入りしました。このとき、選手ミーティングではいつも、“巨人より、お前たちの方が上だよ”とか、“巨人に引けを取るな、負けるな”と言われていました。それはすごくよく覚えていますね」
1965年から73年にかけて、川上哲治監督率いる巨人は前人未到のⅤ9を達成する。一度も優勝経験のないヤクルトは、常にジャイアンツの後塵を拝していた。その時代を経験してきた若松に問う。「ジャイアンツコンプレックスはあったのか?」と。
「あったと思いますね。やっぱり、“あぁ、巨人か。やっぱりすごいな”って」
即答だった。「天下のジャイアンツ」は、長嶋茂雄、王貞治という国民的スターを擁し、試合中継は常に全国放送されていた。そんな状況下でなかなか勝てず、「お荷物球団」と称されていた当時のヤクルトには、確かに「ジャイアンツコンプレックス」があった。しかし、これを払拭しない限りは絶対に巨人を倒し、優勝することはできない。だからこそ、広岡は選手たちの意識改革を促したのだ。
「森さんをコーチとしてヤクルトに呼んだこともそうだし、あとは78年のユマキャンプも大きかったと思います。それまでは国内の鹿児島でキャンプをしていたのに、この年はいきなりアメリカのユマですからね。キャンプ地を見つけてきたのも広岡さんだと聞いたことがあるけど、あれには本当に驚きましたよ」