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「オレが投げる日は抑えをやれ」ロッテで先発転向・牛島和彦に村田兆治の要望も…「200勝まで残り4勝は自分でやってください」でキャリアハイ

posted2025/08/05 11:13

 
「オレが投げる日は抑えをやれ」ロッテで先発転向・牛島和彦に村田兆治の要望も…「200勝まで残り4勝は自分でやってください」でキャリアハイ<Number Web> photograph by Makoto Kemmisaki

ロッテ移籍後もクローザーとして奮闘し、村田兆治の200勝へ大きくサポートした牛島だったが、先発転向を決意して……

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赤坂英一

赤坂英一Eiichi Akasaka

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Makoto Kemmisaki

 1986年のシーズンオフ、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)と中日ドラゴンズの間で、プロ野球史に残る1対4の超大型トレードが断行された。
 日本で唯一三冠王を3度達成したロッテ・落合博満内野手(33=当時、以下同)1人と、中日ドラゴンズ・牛島和彦投手(25)、上川誠二内野手(26)、平沼定晴投手(21)、桑田茂投手(26)の4人の交換である。
 これまで中日が獲得した落合の側から語られることの多かったこのトレードで、ロッテに放出された4人で一番の主力・牛島は何を考え、どう行動し、運命を受け入れたのか。そして、その後の野球人生にどのような影響があったのか。29年後の今、真相のすべてを明かした。〈全5回の第4回/つづきを読む

 牛島はロッテ移籍後、獅子奮迅の働きを見せた。移籍1年目の87年は41試合に登板して24セーブ(2勝4敗、防御率1.29)、2年目の88年は38試合で25セーブ(1勝6敗、防御率4.47)をマークし、2年連続最多セーブを記録している。

 これは当時の監督・有藤道世(当時40)が、常日頃から牛島のコンディションに配慮してくれたおかげでもあった。

新人監督・有藤の気づかい

「僕がロッテに移籍した87年、有藤さんも監督就任1年目だったでしょう。しかも、選手を引退されてから、翌年すぐ監督になられている。有藤さんがそういうお立場で、僕は球団が落合さんを出してまで獲ってきた選手ですよね。だから、有藤さんにはすごく気を使っていただきました。これはもう感謝です。

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 例えば遠征先の宿舎で僕の部屋を見て、『狭いだろう』と有藤さんは言われるんです。僕が『大丈夫ですよ』と言ってるのに、『いや、この部屋じゃ狭過ぎて休めないから、もっと広い部屋に変えてやる』って、本当に部屋を変えてくれたりね。中日時代はもっと狭くて、壁を通して隣の部屋から電話でしゃべってる声が聞こえるような部屋に泊まっていたんですけど(笑)」

【次ページ】 チームで一番のエースになってみたい

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