「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
神がかったサヨナラ勝ちを連発…“1978年の広岡ヤクルト”に何が起きていたのか? 杉浦享の証言「星野仙一さんのボールの握りが見えたんです」
posted2024/03/30 11:01
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
ヤクルトスワローズが球団初のセ・リーグ優勝、そして日本一に輝いた1978年、負傷によりシーズン前のユマキャンプに参加できず、悶々とした日々を過ごしていた杉浦享。そんな25歳の“覚醒”の裏には、主砲・大杉勝男から託された一通の手紙があった。伸び盛りの杉浦が“鬼の指揮官”広岡達朗のもとで強力打線の一翼を担い、神がかり的な快進撃の主役になるまでのドラマに迫った。(連載第26回・杉浦享編の#2/#1、#3、#4へ)※文中敬称略、名称や肩書きなどは当時
ライバル・大杉勝男からのメッセージ
広岡達朗が監督就任時に掲げた「ジャイアンツコンプレックスの払拭」のために、1978年春、ヤクルトスワローズは球団初となる海外キャンプをアメリカ・アリゾナのユマで行った。しかし、当時プロ8年目、25歳の杉浦亨(現・享)は、渡米直前の負傷によって、アメリカに同行することができなかった。
この間、杉浦は「今に見ていろ」の思いとともに国内で汗を流していた。その原動力となったのは、主砲・大杉勝男から託された「一通の手紙」だった。改めて、あの春の日を振り返る。
「球団の方を通じて、大杉さんからの手紙を受け取りました。アメリカに行くことができなくなった僕のために、わざわざメッセージをしたためてくれたんです」
そこには、こんな内容が記されていたという。
《悔しいだろう。でも、腐ったらダメだぞ。オレも、去年はお前の台頭で出番が少なくなってしまったときは本当に悔しかった。だから、必死に頑張って、もう一度奪い返した。今度はお前の番だ。この悔しさを忘れないで、オレたちが日本に戻ってきたときには、「どうだ、オレはこんなに頑張ったんだぞ」という姿を見せてほしい。それまでは気持ちを抜いたらダメだぞ。オレは待ってる。》
感慨深い表情で、杉浦が述懐する。
「本当に嬉しかったです。読んでいて、涙があふれました。大杉さんの気持ちに応えなければいけない。その思いはさらに強くなりました。悔しくてユマのニュースは見ることができなかったから、このときは目の前のことだけに必死に取り組みました」