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「偏差値70超え」阪神・大竹耕太郎の“超エリートだけど泣き虫だった”話…中高時代の同級生が証言「体育の授業なのに…あいつはガチでした」
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byKYODO
posted2023/06/21 11:02
今季から阪神でプレー。5月に月間MVPを受賞するなど覚醒した大竹耕太郎
「そんな感じには見えなかったですね。……というより、そもそもアイツ自身が周りにそういう姿を見せないんです。勉強も野球も、典型的な隠れて努力をするタイプでしたから」
熊本では、成績優秀な中学生は私学よりも公立の進学校を目指すケースが多い。大竹は前期入試で県内一の進学校である熊本高校を受験。惜しくも合格とならなかったが、後期入試でやはり“偏差値70”以上の済々黌高校を受けて見事に受かった。一方の林も後期の受験で合格。2人は同じ高校に進むことになった。
「また大竹と一緒に野球ができる。それが本当にうれしかった。済々黌には、託麻中の1学年上のキャッチャーに西口貴大さん(のちに慶應義塾大)がいて、西口さんが熱心に誘っていたことも、大竹が済々黌を選んだ理由かもしれません」
大竹がいれば甲子園行けるかも…
済々黌は超進学校である。だが、野球部の練習は猛烈に厳しかった。特に1年生時は朝5時半頃に家を出て、朝練のための準備をする。放課後の練習時間も長かった。林と大竹は自宅が近かったため、約30分の道のりを自転車で一緒に帰った。育ち盛りの彼らは時折道くさをして、馴染みの唐揚げ屋で小腹を満たした。
「大竹は中学の途中から細身に変わって、投球スタイルも緩急を使うなど技巧派になっていきました。ピッチングも野球自体も理論的に考えるタイプでしたね。だけど、学校の帰り道ではあまり野球の話はしなかった。クラスや友達、先生のこと……普通の高校生と変わらないと思います」
大竹は入学後すぐにベンチ入りし、1年秋からチームのエースになった。実力は明確に抜きんでていた。
「打てるチームではなかったので、大竹が3点でも取られたら勝てない。とにかく最少失点で抑えることが至上命題というチームでしたが、アイツはしっかり遂行するんです。僕は外野手でしたが、ボールが飛んでくることも少なかった気がします」
「体育の授業でも不機嫌になるほどガチ」
大竹がいれば甲子園に行ける……。予感はあった。それでもこの頃はまだ、大竹が将来プロ野球選手になるという確信はなかったという。しかし、周りの部員とは明らかに違った一面があった。