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野村克也52歳が河川敷で放った「百発百中のホームラン」…少年たちに“三冠王の実力”を見せつけた日「この監督についていけば必ず勝てる」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS
posted2023/05/05 17:03
現役時代の野村克也のバッティング(1967年)。本塁打王9回、通算657本のアーチをかけた打棒は引退から7年が経っても健在だった
これまでも、克則の家に遊びに行くと、そこに数々の賞状やトロフィーが飾られているのを目にしていた。そのときは何も感じることはなかったけれど、あの河川敷での連続ホームランを目撃してからは、これらの記念アイテムを見る目も変わった。
(やっぱり、この監督についていけば僕たちは必ず勝てるんだ……)
バットを振る手に、さらに力がこもった。
野村に見出された技巧派ピッチャー
近所の遊び仲間たちはみな野球好きだった。
その影響もあって、東京・目黒区に住んでいた藤森則夫は小学校2年生の頃に隣接する世田谷の「リトルコンドル」という軟式野球チームに入団した。最初は内野手から始まって、次にキャッチャー、そして、6年生の頃にはピッチャーになった。
野球に魅せられていた藤森は、見るのもやるのも大好きだった。東京生まれ、東京育ちだったので、神宮球場を中心にヤクルトスワローズの試合をよく見ていたけれど、後楽園球場では読売ジャイアンツ戦も見ていたし、特定のチームのファンというよりは、とにかく野球自体が大好きな少年だった。
その後、身長はあまり伸びなかったけれど、6年生当時ですでに160センチとなっていた藤森は中学で本格的に野球に打ち込もうと考える。小学校の同級生が渋谷リトルに入っていた。ある日、彼から貴重な情報がもたらされた。
「新しくできた港東ムースというチームが練習会をやるんだって……」
すぐに問い合わせて、友だち数名と練習会に参加した。会場は神宮の室内練習場だった。結局、友人たちはみな他のチームに入ることになったけれど、藤森はできたばかりの新チームに魅力を感じて港東ムースに入ることを決めた。
(プロが使う場所で練習ができて、しかも監督はあの野村さんなんて、最高だな……)
ムース1年目。一からのスタートだった。
監督は「あの野村さん」だ。テレビ解説で何度か顔を見たこと、声を聞いたことはあった。現役時代の記憶はなかったから、特別な興奮や感動があったわけではないけれど、周りの大人たちがみな上気した顔で、「野村さんが監督なら安心ね」と話している姿は、強く印象に残ることになる。
<続く>