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「その瞬間、ぼくは切れてしまった」鹿島アントラーズの主将がサポーターの“空き缶”を投げ返した日…“ジーコの精神”はいかに受け継がれたか?
text by
熊崎敬Takashi Kumazaki
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2023/05/16 11:01
1993年の本田泰人。鹿島アントラーズのキャプテンとして、ジーコの精神を継承した
ジーコが根付かせた「鹿島の伝統」
昨日の敵は今日の友。ふたりは'97年、鹿島でチームメイトになる。
「あのときは心底嬉しかったですけど、それはビスも同じだったみたいですよ」
シーズンが始まり、練習場で顔を合わせたふたりは言葉もなく抱き合った。
稀代の潰し屋と勝利の味を熟知する司令塔がタッグを組み、鹿島は無敵になった。僅差の勝利を手繰り寄せるコーナー付近での時間稼ぎは定番となり、ふたりがともにプレーした5年間で実に7冠を手に入れる。
本田は、鹿島の伝統についてこう語る。
「ジーコは、勝つためになにができるか考えられる選手が増えるほど、チームは強くなると考えていました。実際に鹿島の伝統は選手が自分たちで戦い方を決めて動けるところにあって、特に悪いときほどしっかりと解決策を考えられるんです」
「後輩たちには厳しくせざるをえませんでした」
サッカーはいいときばかりとは限らない。人材が揃っているときや好調なときに勝つことは、そう難しくはない。それよりも大切なことは、悪いときにいかにして勝つか。これこそが鹿島最大の強みである。
'95年、二代目主将を拝命したとき、本田は腹を固めたという。
「ぼくはまだ若く、自分のことで手一杯でしたが、今後はチームを最優先に考えようと決意しました。練習ではいつも先頭に立って背中を見せる。ぼくの性格上、後輩たちには厳しくせざるをえませんでした」
敵にいやがられた本田は、味方に嫌われることを厭わなかった。
「'98年に鳴り物入りで入団した小笠原満男や中田浩二、本山雅志は自信満々で、10歳上のぼくの言葉も一応は聞く程度。当時、総監督だったジーコは現場にあまり口を出していませんでした。選手同士で伝え合わなければ、伝統は継承されないと思っていたのかもしれません。そこでぼくは、後輩に口うるさく言い続けたんです」