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大学野球PRESSBACK NUMBER
「将来は宇宙開発の仕事を…」“JAXA志望”だった東大キャプテンが決断した“意外すぎる選択”「東大で一番やりたかったのは野球」
posted2023/04/11 17:01
text by
上原伸一Shinichi Uehara
photograph by
Shinichi Uehara
今シーズンから東大野球部の主将となった梅林浩大(4年)。1浪を経て東大に合格し、「甲子園球児」と「東大生」という2つの肩書きがついたが、梅林にはもう1つ大きな目標があった。それは「赤門軍団」の選手として神宮で活躍することだった。
高校3年時の8月、東大の練習会兼勉強合宿に参加したことでその想いを強くした。
「高校時代は東大野球部について何も知らなかったです。初めて意識したのが、高校2年の明治神宮大会の時で、前監督の浜田一志(土佐中・高校長)さんから『東大でやらないか』と声をかけていただいたんです。決め手になったのは3年夏の合宿で、それまで遠い存在だった東大の選手との距離が縮まり、ここでやりたいなと。それと、静高同期の村松開人(明大-中日)と黒岩陽介(立大-日立製作所)がひと足先に(現役合格で)東京六大学の野球部に入っていたので、彼らに刺激されたところもありましたね」
12年ぶりに“甲子園球児”がやってきた
入部当時、2浪を経て入学した別府洸太朗(4年/東筑高3年夏に背番号「14」で甲子園出場)とともに「12年ぶりの甲子園球児」と話題になった梅林だが、そこからは決して順調ではなかった。
出鼻もくじかれた。入部とともにパンデミックが始まり、野球部としての練習が8月までできなかったのだ。「授業もオンラインでしたし、何のために静岡から上京してきたのかと、悶々としてましたね」と当時の心境を振り返る。
大学野球のレベルの高さにも苦労した。打力を買われ、2年春から代打要員としてベンチ入りするも、2年時は計6打席でノーヒット。
「特に悔しかったのが初打席です。春の早大との開幕戦、(1点差の8回2死満塁で起用された)僕がヒットを打っていれば勝っていたと思います」
しかし元プロの井手峻監督の期待は揺るがず、3年生になると4番か5番を任される。それでも打率は春、秋ともに1割台と不本意な結果に終わった。