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17歳の日本人ピッチャーが最強アメリカに快投…「何点でも取れる」日本野球を見下すベーブ・ルースを驚かせた“沢村栄治の伝説”
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/03/19 11:00
「日本プロ野球が始まった日」。それは沢村栄治が最強・アメリカチームと対した試合だった(写真はイメージ)
投手4冠達成者同士のハイレベルな争いだが、沢村の成績で驚くのが、先発24に対して完投24と、実に完投率100%であることだ(6試合は救援登板)。チームの大黒柱として、シーズンを通して安定した投球を続けた証左だろう。
二人の比較では、沢村が登板数、完投数、完封数、勝利数、勝率、投球回、防御率、WHIPで上回り、山本が上回るのは奪三振数と与四球数だけだ。
当企画で重視している”打者圧倒度”の指標となる1試合当たりの被安打数は、沢村の5.09に対して、山本は5.76と、これも沢村がリード。奪三振率は、沢村の7.23に対して、山本が9.57と圧倒しているが、投手力が弱かった当時の巨人でフル回転せざるを得なかった沢村は、少ない投球数で打たせて取る投球に徹していたとされ、チームメイトだった300勝投手・スタルヒンは「沢村は天才ですよ。自分で三振を取ろうと思ったら何ぼでも取れた」と証言している(「ベースボールマガジン」1955年2月号)。
他に、打者圧倒度の指標にしている防御率、WHIPでも沢村が勝っていることから、沢村に軍配を上げたい。
これで、オールタイム王者が沢村栄治、昭和後期以降のパートタイム王者が山本由伸となった。
沢村栄治の最期
20歳で中国戦線に出征した沢村は、昭和15(1940)年にプロ野球に復帰するが、戦地で手榴弾を投げ続けて肩を壊し、かつての快速球は戻らなかった。
その後、2度目の出征、再度のプロ野球復帰を経て、昭和19(1944)年12月、3度目の召集を受けてフィリピンに向かう海上で輸送船が雷撃を受けて戦死した。27歳だった。
20歳にして投手生命を絶たれた沢村が、平和な時代に生まれていたらどんな投手に成長していたのか――。その姿を見られなかったことが残念でならない。
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