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藤井聡太“20歳の名人挑戦”に「充実感があります」…羽生善治&谷川浩司「初名人の道」を開いた“A級順位戦プレーオフ伝説”とは

posted2023/03/10 11:04

 
藤井聡太“20歳の名人挑戦”に「充実感があります」…羽生善治&谷川浩司「初名人の道」を開いた“A級順位戦プレーオフ伝説”とは<Number Web> photograph by Kyodo News

史上2番目の年少記録で名人挑戦を決めた藤井聡太五冠

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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 3月2日に行われたA級順位戦の最終戦で、トップの広瀬章人八段(36)と藤井聡太五冠(20=竜王・王位・叡王・王将・棋聖)がともに勝って7勝2敗とし、両者のプレーオフで渡辺明名人(38=棋王と合わせて二冠)への挑戦権が争われた。藤井五冠と同じくA級1期目でプレーオフに進出した、40年前の谷川浩司十七世名人と29年前の羽生善治九段の当時の状況、そして、8日に行われた広瀬-藤井のプレーオフの将棋と結果を、田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書は当時】

谷川浩司20歳が挑んだのは中原誠35歳だった

 A級順位戦の最終戦で、広瀬八段は菅井竜也八段が得意とする振り飛車を破って勝ち、藤井五冠も武器とする角換わり腰掛け銀を用いて稲葉陽八段に勝った。その結果、広瀬と藤井は7勝2敗で並び、両者のプレーオフは3月8日に東京の将棋会館で行われた。どちらが勝っても、名人戦で初挑戦となる構図となった。

 過去50年のA級順位戦で最終戦の結果によって、2者によるプレーオフが行われたのは7例ある。そのうち、同じ「中学生棋士」として藤井五冠の大先輩で、A級1期目で名人戦の挑戦者になった、谷川十七世名人と羽生九段の当時の思いや状況をまず紹介しよう。タイトル数や年齢などで違いはあるが、現代の藤井と比較してもらえれば幸いである。

 1983年のA級順位戦の最終戦で、中原誠十段(当時35)とA級1期目の谷川八段(同20)がともに勝って7勝2敗で並んだ。その結果、両者のプレーオフは3月24日に東京の将棋会館で行われた。

 中原は1982年に9連覇していた名人位を失い、一時的スランプに陥った。その後、十段戦(竜王戦の前身棋戦)と棋聖戦でタイトルを再獲得し、1983年3月にはすっかり復調していた。一方の谷川も各棋戦で活躍していたが、十段戦リーグと王将戦リーグで陥落するなど、タイトル戦になかなか登場できず、A級順位戦にだけ白星が集まっていた。

谷川が「棋士になって初めて震えを経験した」瞬間

 1982年度の両者の対戦成績は中原の5勝1敗。プレーオフで中原の勝ちを予想する声が多かった。谷川は上京する前日、滝川高校(兵庫県神戸市)の先生や同級生から激励を受け、取材に来ていたテレビ局の求めに応じて村田英雄の大ヒット曲『王将』を歌った。大師匠に当たる伝説の棋士・阪田三吉の人生をテーマにしたもので、「明日は東京で勝たねばならない」という意味の歌詞は、谷川の決意でもあった。

【次ページ】 谷川-羽生のプレーオフで起きた予想外の事態

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