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「妻、子ども3人に誇らしく思ってもらえるように」“サッカー未経験部員が空き地で練習”から15年で日本一…岡山学芸館監督が語る秘話
text by
間淳Jun Aida
photograph byKiichi Matsumoto
posted2023/03/06 11:18
第101回の全国高校サッカー選手権を制した岡山学芸館。監督などに現地取材して日本一までのプロセスを聞いた
当時は作陽、玉野光南、岡山理科大附属の3強に全く歯が立たなかった。チームの先頭に立って全国大会出場を目標に掲げても、大敗した選手たちは自信を失っていた。高原監督は「岡山のチャンピオンになるまで、どれくらいかかるのか。全国への道は見えなかったです」と振り返る。
その頃、岡山県は堅守速攻のチームが多かった。王者・作陽はボールを回して試合をコントロールするスタイルだった。「シンプルにいける時は速攻を仕掛け、それができないときはボールを失わない、どちらもできるチームを作りたいと思いました」。高原監督は岡山を制する前から、現在の「縦に速いボールポゼッション」をチームのコンセプトにしていた。
「どうやって県内ベスト4の壁を破るか常に考えていました。チャンピオンになろうと選手に伝えても、試合で結果を残せないと『やっぱり駄目だ』と元に戻ってしまう繰り返しでした」
戦う前から負けていた強豪校に怯まなくなったワケ
選手の育成に加えて、高原監督は選手集めにも動いた。自ら中学校やクラブチームを訪問。積極的に練習試合を申し込み、岡山学芸館の名前を売り込んだ。そして、人脈をフル活用し、県外の強豪校と練習試合を組んだ。選手たちは全国のレベルを思い知らされた。だが、通用する部分や課題が見えてくる。劣等感が少しずつ悔しさや向上心に変わってくる。最初は戦う前から負けていた強豪校の名前に怯まなくなった。高原監督は言う。
「チームが弱い時から、たくさんの高校に相手をしてもらい、すごくお世話になりました。私が平先生の教え子ということで、かわいがってもらえたのが本当に大きかったです」
高原監督が師と仰ぐ平清孝さんは東海大五を全国屈指の強豪校に育て上げた名将。今年度から、岡山学芸館でゼネラルアドバイザーを務めている。平さんとの出会いを財産にして武者修行を重ね、指揮官はチーム力を上げていった。
そして、2012年。サッカー部史上初となるインターハイ出場を決めた。岡山県の決勝で、ついに作陽の壁を越えた。この年、現在使っているサッカー部専用の人工芝グラウンドが完成。部員は50人近くまで増えていた。
高原監督の指導を信じて変身した選手たちは、目標としてた全国大会出場を達成して確かな自信をつかんだ。年々部員は増え、全国でも勝てるチームへと駆け上がっていった。
どんなにチームが強くなっても、高原監督にはぶれない指導方針がある。まずは、サッカー人生の原点となっている挨拶。必ず立ち止まって、はっきりとした口調で相手より先に声をかける。話を聞く時も浸透しているルールがある。背筋を伸ばして両手を後ろで組み、膝を曲げずに話している相手を真っ直ぐ見る。復唱もチームの特徴。高原監督やコーチが次の練習メニューを「ポゼッション」と告げると、指示が聞こえた選手たちは「ポゼッションです」と声を出す。その声に反応して別の選手も繰り返し、グラウンド全体で共有される。
空き地で練習していた頃はサッカー経験のない選手も
一方、選手の成長とともに、高原監督が変えてきた部分もある。