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74歳急死…門田博光の「40歳で44本塁打125打点MVP」「ガラガラな二軍で衝撃ライナー弾」を見た〈アキレス腱断裂も王・野村に次ぐ567発〉
posted2023/01/25 17:15
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広尾晃Kou Hiroo
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左耳の後ろの位置でバットをピタッと構えると、あとは微動だにしない。「木鶏」とはこういうものかと思った刹那、バットは一閃し、すさまじい勢いの打球が大阪球場の右中間席に突き刺さった。
1988年、筆者は40歳の門田博光の打席を見ることを1日の最重要案件にしていた。
午後6時に北新地の前にあった勤務先の会社からタクシーに乗って御堂筋を南下し、難波の大阪球場に向かい6時半の試合開始に間に合うタイミングで門をくぐった。
前売りチケットなど買ったことがない。当時の南海ホークスの試合は、知る限り一度も満員になったことがなく、バックネット裏の席も余裕で取ることができた。
ネット裏には、難波の料亭の名前が入った割烹着姿の男性が店の売り物の鉄火巻きにかぶりつきながらビールを飲んでいたりした。ミナミの繁華街の綺麗どころが何人か距離を空けて座っているときもあった。某公共放送のアナウンサーもこの年、大阪球場に日参していて、“皆様の放送局”らしからぬヤジを飛ばしたりしていた。
30歳のアキレス腱断裂前までは俊足・鉄砲肩が売りだった
門田博光は天理高校、クラレ岡山を経て1970年、ドラフト2位で南海ホークスに入団した。170cmと小柄で入団当初は俊足で守備範囲の広い外野手だった。
特に鉄砲肩は目立っていて、野村克也監督は4月12日の開幕戦で2番右翼に抜擢した。
この頃は広瀬叔功、島野育夫、樋口正蔵、柳田利夫などの外野手がいて、門田はレギュラーではなかったが、翌年には野村克也の前後を打って打点王を獲得するなど安定感のある中軸打者になる、1977年オフにプレイングマネージャーの野村克也がチームを追われてからは看板打者となった。
しかし1979年2月、アキレス腱を断裂。シーズンをほぼ棒に振った。30歳にして大きな挫折だった。
筆者はこの年、大阪球場の隣にある予備校に通う浪人生だったが、授業をさぼって大阪球場の二軍戦によく通っていた。一軍戦でさえも閑古鳥が鳴いている南海なので、二軍戦は全くのフリーパスだった。8月終わりのウエスタン・リーグの公式戦に、門田が代打で打席に立つと、その初球を無造作に振りぬいた。右寄りに守っていた遊撃手がジャンプした低い弾道の打球はぐんぐん高度を上げて、センターバックスクリーン横に落ちた。
西鉄ライオンズの全盛期、中西太は投手がジャンプするような低い弾道のホームランを打ったとされる。それは「伝説の類」だと思っていたが――門田は本当にそういう打球を打ったのだ。